嘉兵衛拿捕までの経緯とは? わかりやすく解説

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嘉兵衛拿捕までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:01 UTC 版)

高田屋嘉兵衛」の記事における「嘉兵衛拿捕までの経緯」の解説

ニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)による文化露寇の後、日本対ロシア感情極めて悪化していた。そうした中、文化8年1811年5月軍艦ディアナ号千島列島測量行っていたヴァーシリー・ゴローニン国後島の泊に入港した際、厳戒態勢にあった国後陣屋役人に捕えられ、松前幽囚の身となったディアナ号副艦長のピョートル・リコルド(ロシア語版)は一旦オホーツク戻りゴローニン救出交渉材料とするため、文化露寇捕虜となりシベリア送られていた良左衛門文化7年1810年)にカムチャツカ半島漂着した摂津国歓喜丸の漂流民を伴ない、国後島向かった国後島着いたリコルドは漂流民を陸へ送り日本側からゴローニン消息知ろうとした。松前奉行調役の奈佐瀬左衛門は良左衛門を介してゴローニン死んだ伝えたが、リコルドはそれを信じず、文書証明するようにと良左衛門を陸へ送り返したが、良左衛門は戻らなかった。リコルドは国後島沖に留まり日本船を拿捕し更なる情報入手しよう待ち受けた。そこに通りかかったのが嘉兵衛の船である。

※この「嘉兵衛拿捕までの経緯」の解説は、「高田屋嘉兵衛」の解説の一部です。
「嘉兵衛拿捕までの経緯」を含む「高田屋嘉兵衛」の記事については、「高田屋嘉兵衛」の概要を参照ください。

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