吉田と競い合う華麗な遊撃守備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 20:01 UTC 版)
「広岡達朗」の記事における「吉田と競い合う華麗な遊撃守備」の解説
読売ジャイアンツへ入団した広岡は、自慢の守備力をまざまざと見せつけた。1954年5月には正遊撃手だった平井三郎からレギュラーを奪って規定打席にも到達するなど、打率.314(リーグ6位)、15本塁打、67打点を記録して新人王を獲得し、ベストナインにも選ばれた。 1955年はチーム事情もあって主に三塁手として起用されるが翌年には遊撃手に戻り、これ以降、セントラル・リーグにおいては吉田義男(大阪タイガース)と共にリーグを代表する遊撃手と称され、守備の堅実・華麗さを吉田と競い合った。一方で打撃面では2年目以降に打率が低迷、広岡にとって大きな課題となる。 1956年・1957年はいずれも4月から故障で2か月間離脱したが復帰し、1957年には自己最多の18本塁打を打つなど長打力に進歩を見せる。 1958年は努力の甲斐もあって打率.277(リーグ7位)の好成績を記録すると、この年には後に王貞治と共に「ON砲」として歴史に名を残す大型新人・長嶋茂雄(立教大学)が入団し、早稲田大学卒でスラリとした長身の広岡と共に女性ファンの人気を集める。私生活においては、1957年12月に品川主計球団社長(当時)の媒酌により挙式を行った。
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