吉津川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:51 UTC 版)
吉津川は城下北西の芦田川(現在の市内山手町付近)から分流し福山の北側から東側に回り込み入川(現在の福山港)に注ぐ川である。築城時に切り開かれ本来は芦田川の本流になる計画であったが工事中の洪水により計画が変更され支流にされたといわれる。吉津川は福山城の総構えの堀の役割を持ち、堀の水の水源でもあるなど、城の防衛に極めて重要な役割を持っていた。また、城下に構築された上水道の水源でもあった。城下の北東部には吉津橋が架けられ北部対岸との交通はこの橋によって行われていた。なお、築城当初の吉津橋は現在より西寄りにあったが、寛永18年(1641年)に現在の位置に架け替えられている。この他、下流の三吉村(現在の三吉町)にある城下東側に通じる笠岡街道(鴨方往来)にも橋が架けられていた。なお、この付近の吉津川は近隣に薬師寺と呼ばれる寺があったことから薬師川とも呼ばれている。 吉津川は水野時代中期までに城北部分が堰き止められ上水道の沈殿地(蓮池)として利用されるようになった(詳しくは福山旧水道を参照)。これにより近代水道が完成する大正時代まで福山の重要なライフラインの機能を持つことになったが、蓮池から下流は流量が減少し総構えの防衛を補完する当初の役割は失われることになった。そのため、幕末に長州軍が福山に侵攻した際には吉津川が攻略地点にされ黒門付近から容易く兵の侵入を許すことになった。明治時代になると城下北部の川岸は埋め立てが進み市街地化していき、現在の川幅は概ね幅4、5m程度となっている。
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