台湾同化会と台湾文化協会
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「高木友枝」の記事における「台湾同化会と台湾文化協会」の解説
辛亥革命が起きた1912年前後は、台湾総督府が抗日運動に従事する蒋渭水(1910年入学)、翁俊明(中国語版)、杜聡明(ともに1909年入学)らの学生運動家逮捕を準備をしていたが、校長の高木は「教育の独立制」、「校内自治」を盾に総督府の圧力を拒絶していた。集会で革命運動をの意思を表明していた学生らに対して、反対もせず、むしろ実行には覚悟を決めるように説いていた。羅福星を例に挙げ、もし運動が失敗し死を遂げても笑顔を忘れず、医学院の体面を失わないよう話していた。その後蒋渭水は民族自治運動にのめり込んでいくようになった(p9)。 1914年に王学潜(中国語版)や林献堂が設立し、蒋渭水も加入した民間の日台親睦団体台湾同化会が1914年に開いた台湾鉄道ホテル(中国語版)での成立大会には高木も参列していた(p68)。 1921年10月17日に台北の静修女子中学で台湾文化協会の設立大会が開かれ、高木・堀内の歴代両校長も参列している。
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