台湾占拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 17:11 UTC 版)
鄭成功は勢力を立て直すために台湾を占領し拠点にしようと試みた。当時の台湾はオランダ東インド会社が統治していたが、鄭成功は1661年に澎湖諸島を占領した後に同3月30日からゼーランディア城を攻撃(ゼーランディア城包囲戦)、翌1662年2月21日にこれを落としてオランダ人を一掃し鄭氏政権を樹立した。ゼーランディア城跡に安平城を築き王城とし、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して国家体制を固めたが、熱病にかかり同6月23日に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれた。台湾台南市には、1663年に鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟がある。 ゼーランディア城包囲戦後、降伏したオランダ人男性は虐殺され、生き残ったオランダ人女性と子供はその後奴隷にされ、オランダ人女性は鄭成功の指揮官達が自分たちの性的快楽のために徹底的に利用した後、最終的に中国の兵士に売られて彼らの妻となるよう強いられた。その後の出来事については、オランダの砦の日誌が一次資料となっている。「最高のものは指揮官の使用のために保存され、次に一般の兵士に売られた。未婚の男性の手に落ちた女性は幸せだった、嫉妬深い中国の女性による煩わしさから解放されたのだから」。鄭成功自身もオランダ人宣教師のアントニウス・ハンブルクの10代の娘を妾にし解放することはなかった。1684年になっても、これらのオランダ人女性の何人かは中国人に妻や性的奴隷として捕らえられていた。金門島でオランダ人商人が連絡を取り、鄭成功の息子に囚人を解放する取り決めを提案したが、実現することはなかった。
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