台本作家ピアーヴェ
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題材検討を続けるヴェルディに接近してきたのがフランチェスコ・マリア・ピアーヴェであった。ピアーヴェはヴェルディより3歳年長であるが、台本作家としてのキャリアを1842年にスタートさせたばかりで、この頃はフェニーチェ劇場の上演監督の地位にあった。彼はウォルター・スコットの小説「ウッドストック」に基づいて独自に起こした台本『アラン・キャメロン』Allan Cameronをヴェルディに提案した。これは、清教徒革命に題材をとり、ウスターの戦い以降のチャールズ2世とオリバー・クロムウェルらの抗争を描いたもの(なお、ピアーヴェはユーゴーの『クロムウェル』を台本化した、と記述している書籍もあるが、これは誤り)。 ヴェルディとピアーヴェはこの『アラン・キャメロン』をオペラ化すべくしばし努力する。ヴェルディはその内容について「イベントに乏しい」などいくつかの不満をもっていたし、ピアーヴェがまだ駆出し同然の経験不足であるのも不安だった。しかしピアーヴェの韻文の美しさには見るべきものがあったし、また彼がよく気が利く、温和な性格だったこともヴェルディは気に入ったようだ。1843年の9月には『アラン・キャメロン』はほぼ放棄状態となってしまったが、ヴェルディはそのままピアーヴェを用いて、支配人モチェニーゴの提起した代案をオペラ化することに同意した。それが、ヴィクトル・ユーゴー原作の『エルナニ、またはカスティーリャの名誉』Hernani, ou l'Honneur Castillanだった。
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