反袁世凱運動と護法運動
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翌1912年(民国元年)に臨時参議院が南京で成立すると、林森が議長に選出されている。しかし、孫文が臨時大総統の地位を譲ることになった袁世凱が北京遷都を要求してくると、林はこれに反発し、議長を辞任した。1913年(民国2年)4月、林は福建省選出の参議院議員となり、参議院全院委員長に選出された。同年7月、孫が第二革命(二次革命)を発動、失敗したが、林は国会に残って反袁世凱の活動を続ける。しかし11月には国会も停止されてしまい、林は日本へ亡命した。 日本では孫文が結成した中華革命党に加入し、黄興支持派の欧事研究会にも名を列ねた。その後は海外、特にアメリカで反袁世凱のための資金募集、海外支部設立などに従事し、1914年(民国3年)冬に国民党美洲(南北アメリカ)総支部支部長に選出されている。 袁世凱死後の1916年(民国5年)8月、国会の再開とともに林森は帰国して議員に復帰した。国会では反段祺瑞の姿勢を明確にし、国民党系の憲政商榷会の中でも特に急進派とされた「丙辰倶楽部」に属している。1917年(民国6年)8月、孫文の護法運動に参加するため、林は広州に向かい、護法軍政府(大元帥府)外交部長に任ぜられた。しかし翌年5月に護法軍政府が7総裁による集団指導制に改められ、岑春煊が主席総裁として孫から実権を奪うと、林は怒って上海に一時引退している。 1920年(民国9年)11月、孫文が陳炯明の協力で岑春煊を失脚させると、林森も復帰し、広州非常国会議長に選出された。その後、孫がもくろむ北伐のために海外で資金収集にあたっている。1922年(民国11年)11月、林は許崇智率いる広東軍の援助を受けて福建省入りし、省長に就任した。しかし、まもなく許は広東へ引き返さざるを得なくなり、後ろ盾を失った林も、北京政府を支持する薩鎮氷との政争に敗れて翌年2月に省長を辞任している。7月、大本営建設部長兼治河督弁に任命された。
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