反袁世凱運動と護法運動とは? わかりやすく解説

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反袁世凱運動と護法運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 03:17 UTC 版)

林森」の記事における「反袁世凱運動と護法運動」の解説

1912年民国元年)に臨時参議院南京成立すると、林森議長選出されている。しかし、孫文臨時大総統地位を譲ることになった袁世凱北京遷都要求してくると、はこれに反発し議長辞任した1913年民国2年4月福建省選出参議院議員となり、参議院全院委員長選出された。同年7月、孫が第二革命二次革命)を発動失敗したが、国会残って反袁世凱の活動続ける。しかし11月には国会停止されてしまい、日本へ亡命した。 日本では孫文結成した中華革命党に加入し、黄興支持派欧事研究会にも名を列ねた。その後海外、特にアメリカで袁世凱のための資金募集海外支部設立などに従事し1914年民国3年)冬に国民党美洲(南北アメリカ総支部支部長選出されている。 袁世凱死後の1916年民国5年8月国会の再開とともに林森帰国して議員復帰した国会では反段祺瑞姿勢明確にし、国民党系の憲政商榷会の中でも特に急進派とされた「丙辰倶楽部」に属している。1917年民国6年8月孫文護法運動参加するため、広州向かい護法軍政府大元帥府)外交部長に任ぜられた。しかし翌年5月護法軍政府が7総裁による集団指導制に改められ岑春煊主席総裁として孫から実権を奪うと、怒って上海一時引退している。 1920年民国9年11月孫文陳炯明協力岑春煊失脚させると、林森復帰し広州常国会議長に選出された。その後、孫がもくろむ北伐のために海外資金収集にあたっている。1922年民国11年11月許崇智率い広東軍の援助受けて福建省入りし、省長に就任した。しかし、まもなく許は広東へ引き返さざるを得なくなり後ろ盾失ったも、北京政府支持する薩鎮氷との政争敗れて翌年2月に省長を辞任している。7月大本営建設部長兼治河督弁に任命された。

※この「反袁世凱運動と護法運動」の解説は、「林森」の解説の一部です。
「反袁世凱運動と護法運動」を含む「林森」の記事については、「林森」の概要を参照ください。

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