西郷隆盛
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西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体:西鄕 隆󠄁盛󠄁、1828年1月23日(文政10年12月7日)- 1877年(明治10年)9月24日)は、幕末から明治初期の日本の政治家、軍人[1]。
注釈
- ^ 西南戦争時の肩書
- ^ 城山町は1965年に山下町より分割され成立した町である。
- ^ このメンバーが精忠組のもとになった[要出典]。
- ^ 伊集院須賀の名は敏(敏子)であったとも云われる。
- ^ 大久保正助(利通)も同時期に徒目付になっている[要出典]。
- ^ 兵を率いて東上するつもりであったともいわれる[要出典]。
- ^ 肥後国の菊池氏を祖としていたので、「吾が源は菊池なり」という意で付けたと云われる。
- ^ 龍家はもと田畑氏[要出典]。
- ^ のち木場は大坂留守居役・京都留守居役となり西郷を助けた。
- ^ 大島に三年住んでいたという洒落。
- ^ 地ゴロは田舎者という意味。
- ^ 村田新八『宇留満乃日記』[14]参照。
- ^ 以上は村田著の『宇留満乃日記』[14]に詳しい。
- ^ 仲為の甥養子の琉仲祐は西郷の寵愛を受け後に伴って上洛、1866年(慶応2年)12月に京都で没した。
- ^ 村田の兄宛書簡が伝わる。無断で連れ帰った[要出典]とも、そうではなかったともいう。
- ^ 「薩賊会奸」とは、八月十八日の政変以降、長州藩士が唱えた言葉。たとえば『阪谷朗廬関係文書目録』(国立国会図書館、1990年[20])に記録[21][22][23][24]がある(太字は引用者による)。「薩摩の賊」、「会津の奸物」の意。薩長同盟の成立で口に登らなくなる。これとは別に「薩賊長奸」[25]という言葉も流布した。
- ^ 一代小番が側役以上側用人以下に昇進すると代々小番となり地頭を兼務する。側役は代々小番昇進時の役職としてはオーソドクス。この後、側用人に進むことが多い。
- ^ 『詳説西郷隆盛年譜』によれば、この名は沖永良部島在島以来らしい。
- ^ 当番頭以上寺社奉行以下に進んだ家格代々小番は寄合並(一身家老組)となるのは薩摩藩の慣例。
- ^ 大山成美の通称は彦八、大山巌の兄。
- ^ なお、薩摩藩では大目付と若年寄は家老候補である。また、大目付と若年寄になった時点で寄合並から寄合に昇格するが、大目付を辞退しているので西郷は大番頭、陸軍掛・家老座出席と考えられるので寄合並のまま。
- ^ この密約は、戊辰戦争の際に乾が迅衝隊を率いて出征し達成されることとなる[要出典]。
- ^ 藩政と家政を分け、藩庁を知政所、家政所を内務局とし、一門・重臣の特権を止め、藩が任命した地頭(役人)が行政を行うことにした。
- ^ 『丁丑公論』に詳しい。
- ^ 毛利敏彦はこれらの言動は征韓派の板垣を説得するための方便としている。(吉野誠 2000, p. 4)
- ^ この状態が私学校創設後も続いたことは『西南役前後の思出の記』に詳しい。
- ^ この論文では建設が始まったのは12月頃としていて、説得力がある。
- ^ 山縣有朋は私学校党が「視察」を「刺殺」と誤解したのだと言っている。明治5年の池上らの満洲の偵察を公文書で「満洲視察」と表現しているところから、この当時の官僚用語としての「視察」には「偵察」の意もあった。
- ^ 写実性はなく想像によって描かれたものと考えられる。
- ^ 8日に口供書に拇印を押させられる。口供書は『薩南血涙史』[89]に掲載[要ページ番号]。
- ^ 野村の口供書は『薩南血涙史』[89]に掲載[要ページ番号]。
- ^ のちにこの2大隊を六番・七番大隊としたが、人員も正規大隊の半分ほどで、装備も劣っていた。
- ^ 旧厩跡にあった私学校横の旧牧場。『翔ぶが如く』など、伊敷練兵場としているものが多いが、誤りである[90]。
- ^ 『鎮西戦闘鄙言』では村田と池上が中軍を指揮し、西郷と桐野が中軍で総指揮をとったとする。
- ^ 『西南記伝』では小倉壮九郎。
- ^ 他の資料[要出典]では切腹したとの説があるが検死の結果[要出典]、西郷は切腹はしておらず実質斬首の形の介錯となった。
- ^ 折田邸門前説が最も有力。ただ異説が多く、『西南記伝』には9説あげている[要出典]。
- ^ 首発見時の様子とその前後のいきさつについては、例えば今村均著『私記・一軍人六十年の哀歓』(芙蓉書房)に詳しく記されている。西郷の首を発見した一人が、今村の岳父の千田登文であった。
- ^ 高島は元陸軍中将、枢密院顧問官。西南戦争時は別動第一旅団長。
出典
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- ^ 「四七、 木原章六 広島藩士 検事 桑宅ノ子 §3 明治一〇年 五月二二日 二月一九日鎮台警砲 裁判所御船町ニ移ル 二一日薩賊来襲ノ風聞 県令品川大書記共城ニ帰リ裁判所隈府移庁更ニ山鹿町ヘ移庁 熊本城陥落ノ状勢 植木・木ノ葉ノ戦イ南関混雑瀬高ニ移ル第一旅団野津少将来着山鹿・高瀬線合シ四月一五日熊本城兵ト相通ズ 一八日裁判所帰ルヲ得ル 戦後調査・党民事件・国事犯下調ベ等事務繁忙 植松ノコト〉とある。
- ^ 「一一三、 植松直久 §4 明治一〇年 六月 四日 馬越恭平鹿児島ニ来リ面会」には、〈今回ノ戦状ハ新聞記者描出更ニ肇ヲ要セズ 熊本城中ヨリ奥少佐一大隊賊軍突破 川尻ニテ父老迎エ子弟ノ安否ヲ問ウ 死スルヲ聞ケバ御奉公ヲ済セリトコノ一言民権ヲ振起スルニ足ル 兵士ハ土民ヨリナリ士族ノ薩賊ヲシテ舌ヲ巻カシム コノ徒民権ヲ主唱スル時ハ天下誰カ従ワザル 士族ノ民権論ハ真誠ノ民権論ニ非ズ 高知県暴徒ノウワサ 福岡孝弟〉とある。
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- ^ 「西郷隆盛の息子「酉三」の写真、初確認…息子全員の写真出そろい「青年期の西郷想像できる」」『読売新聞』、2024年3月14日。2024年3月15日閲覧。
「南洲」の例文・使い方・用例・文例
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