南機関とは? わかりやすく解説

南機関

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/08 23:46 UTC 版)

南機関(みなみきかん)は、1941年から1942年にかけて存在した日本軍特務機関の1つ。機関長は鈴木敬司陸軍大佐である。




  1. ^ 佐久間平喜 1993, p. 2.
  2. ^ 戦史叢書5 1967, pp. 126–129.
  3. ^ 佐久間平喜 1993, pp. 10–11.


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南機関

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ビルマの戦い」の記事における「南機関」の解説

詳細は「南機関」を参照 1940年3月日本大本営陸軍部は、参謀本部付元船舶課長鈴木敬司大佐対し、ビルマルート遮断方策について研究するよう内示与えた鈴木ビルマについて調べていくうちにタキン党中核とする独立運動着目した運動武装蜂起発展するような事態となれば、ビルマルート遮断おのずから達成できるであろう鈴木は「南益世」の偽名使ってラングーン入りタキン党員と接触した。そこで鈴木オンサンたちがアモイ潜伏していることを知り、彼らを日本に招くことを決意するオンサンたちはアモイ日本軍特務機関員によって発見され日本到着した。これを契機陸海軍協力してビルマ工作推進することを決定し1941年2月1日鈴木機関長とする大本営直属特務機関「南機関」が発足した。 南機関は、ビルマ独立運動家の青年30名を国外へ脱出させ、軍事訓練施しビルマへ再潜入させて1941年の夏頃に武装蜂起させるという計画立てていた。1941年2月から6月までの間に、脱出したビルマ青年予定30名に達しビルマ青年たちは海南島軍事訓練受けた。しかし1941年の夏には、ドイツ軍ソ連進攻や、日本の南部仏印進駐とこれに対すアメリカ対日石油禁輸など、国際情勢緊迫の度は深まっていった。このような情勢下、ビルマでの武装蜂起計画にも軍中央から待ったかけられた。

※この「南機関」の解説は、「ビルマの戦い」の解説の一部です。
「南機関」を含む「ビルマの戦い」の記事については、「ビルマの戦い」の概要を参照ください。

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