十一代目團十郎襲名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 04:39 UTC 版)
「市川團十郎 (11代目)」の記事における「十一代目團十郎襲名」の解説
その6年後の1962年(昭和37年)4月、『勧進帳』の武蔵坊弁慶、『助六由縁江戸桜』の助六にて、待望の十一代目團十郎を襲名。59年ぶりに大名跡が復活した。『勧進帳』では得意の富樫に加えて、武蔵坊弁慶にも取り組むなど、お家芸の継承に努める意欲を見せた。この襲名興行は「一億円の襲名」と言われ、低迷気味であった歌舞伎人気に再度火をつける役目を果たした。 襲名後は演出家としても意欲的に活動し、1963年(昭和38年)4月、歌舞伎座『修学院物語』で初演出。5月には脚本も手がけた『鳶油揚物語』を歌舞伎座で上演した。 しかし、團十郎襲名からわずか3年半後の1965年(昭和40年)11月10日、胃癌で死去。56歳没。市川團十郎家は九代目より神道(神習教)信者であるため、十一代目團十郎には『玉垣道治彦命(たまがきみちはるひこのみこと)』の諡号が与えられた。同年7月28日、歌舞伎座で行われた日本演劇協会演劇人祭での『助六』の素踊りが最後の舞台となった。團十郎本人には最期まで自身が胃癌、それも末期癌だったということは伝えられず、死のひと月前の記者会見では「来年(1966年)の正月からまた舞台に立つ」とコメントしていたほどであった。 没後に従四位に叙され、勲三等瑞宝章が追贈された。墓石には『従四位勲三等』と彫られている。 團十郎時代が短かったこともあり、十一代目團十郎は今日でも「九代目海老蔵」「海老さま」の名の下に語られることが多い。
※この「十一代目團十郎襲名」の解説は、「市川團十郎 (11代目)」の解説の一部です。
「十一代目團十郎襲名」を含む「市川團十郎 (11代目)」の記事については、「市川團十郎 (11代目)」の概要を参照ください。
- 十一代目團十郎襲名のページへのリンク