北条氏政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 03:23 UTC 版)
北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。今川義元の甥にあたる。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。
注釈
- ^ 西堂丸は氏政の弟である上杉景虎の幼名としても使われているが、天文18年段階で景虎は誕生していない。また、健在である兄弟が同じ幼名を使うことはないので、西堂丸を名乗っていたのは景虎誕生前に死去した氏親となる。
- ^ なお、勝頼は北条氏に対して常陸佐竹氏との甲佐同盟や安房の里見氏ら関東の諸族と同盟関係を結んでいる一方、同時期には織田氏との和睦を試みている(甲江和与)。
- ^ 氏政は秀吉への全面従属には反対であったため、親徳川の氏直をたてたとされるが、後に氏政自身が上洛することを家臣・国衆に通知しており、氏政が主戦派であったとの見解については疑問がある。また、氏政自身は沼尻の合戦を最後に自ら出陣することをせず、氏直に官途名の左京大夫を譲るなど、公の場では氏直をもって北条氏の当主としていた[20]。
出典
- ^ a b c d e 黒田 & 浅倉 2015
- ^ 黒田 2019, p. 10.
- ^ 黒田 2012.
- ^ 黒田 2019, pp. 10–11.
- ^ 黒田 2019, p. 11.
- ^ 黒田基樹「北条「新九郎」氏政について」『戦国史研究』21号、1991年。
- ^ 佐脇栄智「小田原北条氏代替わり考」『日本歴史』93号、1956年。/所収:佐脇栄智『後北条氏と領国経営』吉川弘文館、1997年。
- ^ a b 浅倉直美「北条氏政正室黄梅院殿と北条氏直」『武田氏研究』第59号、2019年1月、1-13頁。
- ^ a b 海老名真治 著「氏康と武田信玄-第一次甲相同盟の展開-」、黒田基樹 編『北条氏康とその時代』戎光祥出版〈戦国大名の新研究2〉、2021年、296-297頁。
- ^ a b 黒田 2020, pp. 9–12.
- ^ 同年10月8日付け、氏康から謙信宛の書状より(上杉家文書)
- ^ 上杉家文書・御書集・展観入札目録
- ^ 上杉家文書、氏政から由良正繁宛書状・集古文書
- ^ 『戦国遺文』後北条氏編 - 2197号
- ^ 黒田 2020, p. 13.
- ^ a b 黒田 2012, p. 157
- ^ a b 黒田 2018, p. 170.
- ^ 黒田 2018, p. 171.
- ^ a b c 黒田 2012, p. 159.
- ^ 黒田 2020, p. 14.
- ^ a b 黒田 2018, p. 239.
- ^ 黒田 2018, p. 252.
- ^ 黒田 2018, p. 253.
- ^ 歴史と文化の香るまち散策コース 神奈川県県西地域県政総合センター商工観光課、2021年11月18日閲覧
- ^ 黒田 2005.
- ^ 下山治久『小田原合戦』角川書店、1996年。
- ^ 黒田 2012, p. 220.
- ^ 黒田 2012, pp. 220–221.
- ^ a b c 黒田 2012, p. 221.
- ^ 酒井抱一・集外三十六歌仙(姫路市立美術館)
- ^ 宮本常一『家郷の訓』(岩波文庫 青 164-2)ISBN 4003316428
- ^ 茨城県史 1986, p. 323.
- ^ “はかなき我が身 天下人 能を舞う”. 読売新聞 (2013年9月4日). 2018年2月6日閲覧。
- ^ 能楽師・柴田稔Blog:2007年7月17日[1]
- ^ “北條五代祭り 高嶋政伸さんの「氏政」に大声援 小田原”. 毎日新聞 (2017年5月4日). 2017年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年5月5日閲覧。
- ^ “第54回北條五代祭り 勇姿ふたたび 早雲 合田雅吏さん、氏政 高嶋政伸さん”. タウンニュース. 株式会社タウンニュース社 (2018年3月3日). 2018年5月3日閲覧。
- ^ “北條五代祭りで勇壮戦国絵巻 一族役に合田さん、高嶋さん”. カナロコ. 神奈川新聞 (2019年5月4日). 2019年8月1日閲覧。
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