北京五輪後〜ロンドン五輪前
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「渋井陽子」の記事における「北京五輪後〜ロンドン五輪前」の解説
今大会で最後となる2008年11月の第30回東京国際女子マラソンに出場(世界陸上ベルリン大会選考レース)。レース前半から5Kmラップ16分台のハイペースで独走していたが、後半で17〜19分台にペースダウン。38.4Kmで優勝した尾崎好美に逆転され、その後も加納由理、マーラ・ヤマウチ(イギリス)にかわされて4位に留まった。 東京から約2か月後の2009年1月に開催された第28回大阪国際女子マラソンへ、世界陸上代表選出を目指して再挑戦。レース序盤から5Kmラップが17分台前半で進む先頭集団に加わっていたが、30Km付近で渋井自らロングスパートを仕掛ける。それについていったのは今回初マラソンの赤羽有紀子ひとりだったが、31Km過ぎでさらに渋井がスパートすると赤羽もついていけなくなり、渋井の独走状態となる。スピードは最後まで衰えることなく、40 km〜ゴールまでのタイムも7分2秒と歴代日本人最速となるラップを叩きだし、結果2位の赤羽とは1分58秒の大差をつける圧勝で、2004年9月のベルリン以来4年4か月ぶりのマラソン優勝を飾り、世界陸上ベルリン大会・女子マラソン代表に内定する。 しかし、2009年8月の世界陸上ベルリン大会女子マラソン本番前に、右足の甲を痛めるケガが悪化。疲労骨折と診断されたため、同レースを欠場する事を表明した(補欠の森本友も体調不良により出場辞退。同女子マラソンの日本代表は4人で出場、その内尾崎好美が銀メダルを獲得)。それから2009年12月の全日本実業団女子駅伝の出走後、暫くの期間完全休養に入っていた。翌2010年11月の東日本実業団対抗女子駅伝に出場、1年近くぶりに公式レース復帰を果たしている。 久々のフルマラソン出場だった東京マラソン2011女子の部では、27Km付近でトップに立ち、独走状態となった。だが35Km辺りからだんだんペースが落ち始め、39Km過ぎでタチアナ・アリャソワ(ロシア)に追い抜かれ、その後も日本女子トップの樋口紀子とタチアナ・ペトロワ(ロシア)にかわされてしまい、結局4位(当初)だった。しかし翌2012年1月、優勝者だったアリャソワのドーピング違反が発覚し失格したため、女子優勝は2着だった樋口に変更となり、渋井の順位も3位に繰り上がった。 2011年8月の北海道マラソンは、中盤一人抜け出して一時独走となった吉田香織にはついていかず、2位グループで待機するが、33Km過ぎにスパートした後吉田に逆転優勝した森本友には徐々に離されて後退し、3位に留まった(同じくエントリーしていた土佐礼子は座骨神経痛により欠場)。 2012年8月開催のロンドンオリンピック女子マラソンの国内最終選考会だった、同年3月の第1回名古屋ウィメンズマラソンでは、30Km過ぎまでトップグループに位置し存在感をアピール。34km付近辺りで先頭集団から徐々に遅れ始め、優勝のアルビナ・マヨロワ(ロシア)や、尾崎好美(2位)・中里麗美(3位)に先行され、日本人3番手の4位でゴール。それでも本人自身は充実感を覚えたのか、フィニッシュ後は右手を突き上げて喜びを表していた。また一般参加の土佐礼子がラストランで40位でのゴール後、二人は笑顔で健闘を称え合っていた。
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