北京での外交交渉とは? わかりやすく解説

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北京での外交交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 19:42 UTC 版)

清露国境紛争」の記事における「北京での外交交渉」の解説

1655年、ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチ(在位1645年-1676年治下ロシアは、二人使節清に送った1669年に、ピョートル・ヤルィジキンとセイトクル・アブリンが北京入りし、貢使として扱われた。この使節によって、清側も「羅刹」がロシア人であると認知するようになったロシア大使は清側の近臣にツァーリ・アレクセイの勅書手渡した勅書康熙帝在位 1662年-1723年)に対しツァーリ服属するよう要求していた。清の官吏らは、康熙帝伝える際に、トラブル恐れてロシアから清への服属要求を「友好願い」に書き換えた。即位して間もない康熙帝は、使者アブリンらを宴に招き厚遇した。清露間で貿易関係結ばれる可能性出てきたいっぽうアムール川沿岸での紛争が再び問題になった。 清側はガンチムールの返還強く要求した1669年康熙帝アブリン口頭で、ガンチムールはじめ貢納170名を引き渡すよう伝えた。ついで清は、使者4名をネルチンスク長官送った。清の使者たちが持たされ勅書では、ロシア対し正式なロシア使節派遣と、ガンチムールの返還命じていた。文書モスクワまで届けられた。ヤクーツクロシア人たちには、満州語モンゴル語書かれ勅書正確に理解するのは難しかったが、大意通じていた。モスクワ政府は、ヤクーツクから康熙帝勅書届けた使者や、北京からモスクワ戻った使者らから、貢納民の返還要求聞いたはずであったが、対策は取らなかった。

※この「北京での外交交渉」の解説は、「清露国境紛争」の解説の一部です。
「北京での外交交渉」を含む「清露国境紛争」の記事については、「清露国境紛争」の概要を参照ください。

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