労働運動に入る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/18 21:21 UTC 版)
1949年から労働運動に参加するようになり、全逓信従業員組合(全逓)の民主化同盟(民同)派の活動家として、日本共産党系の組合員と激しく対立した。同年、逓信省が郵政省と電気通信省に分かれると、全逓も全逓信労働組合(全逓)と全国電気通信労働組合(全電通)に分かれることとなった。山岸は全電通に所属し、1950年に全電通富山県支部書記長となった。 1951年、大阪中央電報局(現:NTTテレパーク堂島第三ビル)に転勤になったのを期に、活動の場所を大阪に移し、1953年には全電通大阪電信支部書記長、翌年には全電通近畿地方本部執行委員、さらに翌年には全電通中央本部執行委員と、全電通内部で順調に昇進していった。 しかし1957年、大阪中央電報局で機械化に伴う人員整理が問題化したため大阪に戻り、全電通大阪電信支部書記長(翌年に委員長)として事態の解決にあたった。以後、大阪で全電通の指導者として日本電信電話公社(電電公社)の合理化問題に取り組み、機械化で不要になった電話交換手を解雇ではなく配置転換とするよう、電電公社側と粘り強く交渉を続けた。 1967年に全電通中央本部に復帰し、1982年には全電通委員長に選出された。 「スト権スト#スト権ストの計画策定」も参照
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