初代:下鹿折隼人源重時
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光村の孫の及川重国は登米郡上沼に住み大永元年58歳で没、その子が及川重時である。重時は現在の気仙沼市鹿折地区を与えられた。この地域は南北に流れる鹿折川に沿って川上(北部)を「上鹿折」、川下(南部)を「下鹿折」といい、重時は下鹿折の浪居田(波板とも書き現在の「浪板」)に居住したので下鹿折氏と称した。この地域はかつて気仙沼熊谷党の所領であったが、室町初頭に葛西高清の侵略を受け熊谷氏が降伏して葛西家臣となった際、伝統的な裁定として所領半分を安堵、残り半分は没収された。その時に葛西氏に没収された旧熊谷領の一部であった。下鹿折氏の所領は狭小で農業生産はさほどでなく、熊谷氏等の近隣勢力と同様、漁業や海産の利で補っていた。他に上鹿折には金山があり重要な財源となっていた。本家の及川氏は初めて奥州に土着した及川政嗣から昆野氏(平安後期に奥州において黄金の採掘や流通を担った氏族である金氏の末裔)との関係が深く、葛西氏が及川氏を代官として鹿折金山を管理させようとした意図があった。拠点とした浪居田に館を構え「忍城」(忍は「しのぶ」と読み、信夫館、忍楯館、忍楯城などともいう)と名付けた。この城(館)の跡は平成27年11月現在砂利の採掘場跡となっているが、東日本大震災の被害を免れ、県道及び市道の予定地となり工事中である。
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