初代:下鹿折隼人源重時とは? わかりやすく解説

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初代:下鹿折隼人源重時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/05 13:45 UTC 版)

鹿折氏」の記事における「初代:下鹿折隼人源重時」の解説

光村の孫の及川重国登米郡上沼住み大永元年58歳で没、その子及川重時である。重時は現在の気仙沼市鹿折地区を与えられた。この地域南北流れる鹿折川沿って川上北部)を「上鹿折」、川下南部)を「下鹿折」といい、重時は下鹿折の浪居田(波板とも書き現在の浪板」)に居住したので下鹿折氏称した。この地域はかつて気仙沼熊谷党の所領であったが、室町初頭葛西高清侵略を受け熊谷氏降伏して葛西家となった際、伝統的な裁定として所領半分安堵残り半分没収された。その時葛西氏没収された旧熊谷領の一部であった。下鹿折氏所領狭小農業生産はさほどでなく、熊谷氏等の近隣勢力と同様、漁業海産の利で補っていた。他に上鹿折には金山があり重要な財源となっていた。本家及川氏初め奥州土着した及川政嗣から昆野氏(平安後期奥州において黄金採掘流通担った氏族である金氏末裔)との関係が深く葛西氏及川氏代官として鹿折金山を管理させようとした意図があった。拠点とした浪居田に館を構え忍城」(忍は「しのぶ」と読み信夫館、忍館、忍城などともいう)と名付けた。この城(館)の跡は平成27年11月現在砂利採掘場となっているが、東日本大震災被害免れ県道及び市道予定地となり工事中である。

※この「初代:下鹿折隼人源重時」の解説は、「鹿折氏」の解説の一部です。
「初代:下鹿折隼人源重時」を含む「鹿折氏」の記事については、「鹿折氏」の概要を参照ください。

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