出生から縁組まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:04 UTC 版)
寛永20年(1643年)、第2代出羽米沢藩主・上杉定勝の四女として生まれる。母は生善院(近衛家家司・斉藤本盛娘)。幼名は参姫(三姫)。 万治元年(1658年)4月14日、高家旗本吉良義冬の公子・義央に嫁いだ。30万石の国主大名上杉家の姫が、四位の高家とはいえ石高でいえば4200石しかない旗本・吉良家に嫁ぐというのは大変異例であった(富子の姉たちは肥前佐賀藩主・鍋島光茂や加賀大聖寺藩主・前田利治などに嫁いでいる)。家臣からも反対者が出たが、この縁組は江戸幕府からの命令であったため拒否できなかった。また、兄・綱勝が保科正之の娘を正室に迎えていたとはいえ、有力幕閣と縁戚関係の少なかった上杉家にとって、大老・酒井忠勝を大叔父に持つ義央との婚姻は貴重であった。さらに、吉良家が室町時代からの婚姻関係によって扇谷上杉家・八条上杉家の血を引いているという事情もあった。
※この「出生から縁組まで」の解説は、「梅嶺院」の解説の一部です。
「出生から縁組まで」を含む「梅嶺院」の記事については、「梅嶺院」の概要を参照ください。
- 出生から縁組までのページへのリンク