八聖人とは? わかりやすく解説

八聖人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 14:35 UTC 版)

八聖人戦争」の記事における「八聖人」の解説

八聖人 (イタリア語: Otto Santi) という言葉は、戦争中シニョリーア任命した2つ八人委員会どちらか、あるいは両方由来している可能性がある。まずフィレンツェ政府13フローリンをはたいてホークウッド不戦協定を結ぶために、フィレンツェフィエーゾレ聖職者1年間強制課税強制借入課して費用捻出することになり、一つ目八人委員会組織された。もう一つ八人委員会は、少し後になって教皇対す戦争軍事的外交的に遂行するために立ち上げられたものだった。 「八聖人」の内訳については、今でも論争続いている。課税委員会委員たちを八聖人と呼ぶのが多く学者たちの間の定説であるが、一部には戦争委員会委員たちこそ八聖人であると考え学者もいる。この「戦争八人」 (イタリア語: Otto della Guerra)を八聖人(Otto Santi)と呼ぶようになるのは、フィレンツェ歴史家Domenico Buoninsegniの1445年文献からである。戦争同時代レオナルド・ブルーニジョヴァンニ・モレッリなどは「八聖人」という言葉用いていない。 Buoninsegniはチョンピの乱1378年8月創設された8人の集団指してこの言葉用いている。この乱は八聖人戦争直後勃発した内乱だった。それとは別に1376年3月31日教皇勅書指定され破門者たちについてははOtto dei Preti (課税委員会のこと、直訳すると「八司祭」)とあだ名している。 1375年7月7日任命され八人司祭委員会Otto dei Preti)は、ホークウッドとの不戦協定捻出目的とした聖職者課税実施のために任命された。参加した委員の名は次の通りである。 マッテオ・マレフィチ アントニオ・ディ・フォレーゼ・サッケッティ バルド・ディ・グリエルモ・アルトヴィーティ サルヴィ・フィリッポ・サルヴィ ジョヴァンニ・ディアンジオーロ・カッポーニ アントニオ・ディ・フィリッポ・トロシーニ レッコ・ディ・グイド・グァザ ミケーレ・ディ・プッチオ 1386年8月14日には八人戦時委員会任命された。これはギルドの代表4名と、貴族の代表4名で構成されていた。 大ギルド代表 ジョヴァンニ・ディーニ - 香辛料ギルド グッチオ・グッチ - 毛織物工業イタリア語版ギルドギルド代表 マッテオ・ソルディ - ワイン醸造ギルド ジョヴァンニ・ディ・モーネ - 製粉業ギルド フィレンツェの有力家門代表 アレッサンドロ・デ・バルディ ジョヴァンニ・マガロッティ アンドレア・サルヴァーティ トンマーゾ・ストロッツィ

※この「八聖人」の解説は、「八聖人戦争」の解説の一部です。
「八聖人」を含む「八聖人戦争」の記事については、「八聖人戦争」の概要を参照ください。

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