入鹿池築造とは? わかりやすく解説

入鹿池築造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 00:46 UTC 版)

入鹿池」の記事における「入鹿池築造」の解説

当時新田開発が盛んで、ため池築造もよく行われていた。ため池用水路不足分を補うための物であり、用水としてのため池は、洪積台地などの高位面といった限られた環境で必要とされた。 のちに入鹿池潤すことになる楽田原・青山原・小牧台地は高台にあり、低地であった他の尾張東北部木曾川から取水する各用水路お陰で農地整備充分に行われていたが、これらでは、水源雨水由来する規模小さため池であり、そのため、田畑のない一面野原であった。 ここに新田開発をしよう、という事業の一環として入鹿池築造された。入鹿池を、新田開発主水源に位置付けた。寛永3年1626年)の旱害水争議が起きたのも、開発影響与えた。とにかく、高台水源乏しかった。 主にこの事業従事した人々がおり、彼らは後に入鹿六人衆呼ばれた。即ち、小牧江崎善左衛門上末落合新八郎と鈴木久兵衛田楽村鈴木作右衛門村中丹羽又助又兵衛)・外坪舟橋七兵衛仁左衛門)の6人である。(下記の「入鹿六人衆参照)彼らはため池造成するにはどこがよいか相談の末、丹羽郡入鹿村にある銚子の口せき止める計画立てた入鹿村成沢川今井川)・荒田川小木川)・奥入鹿川といった諸流流れ込む谷間で、尾張富士羽黒山奥入鹿山大山といった山々囲まれていた。諸流はこの谷間1つまとまり五条川幼川となって南に流れる。この谷の出口が「銚子の口」と呼ばれるであった。 つまり、江崎善左衛門筆頭とする入鹿六人衆考えは、この銚子の口せき止めて、入鹿村の谷にため池造ろう、というものであった1つを潰す池は、今までにない前代未聞の物で、これほど大規模な物は、他に、讃岐満濃池しかない。そんな物を作成しようと言うのだから、既に彼ら農民浪人牢人の手負える話ではなくなっていた。そこで、入鹿村を含む犬山統治する犬山藩請願し尾張藩開発願を提出することとなった当時犬山藩成瀬隼人正正虎は尾張藩付家老でもあり、彼の進言により、入鹿池築造尾張藩事業となった尾張藩入鹿村村民対し家長間口一間につき金一両を払い転居させた。立ち退き先として、まだ開発されていない荒地や、池の畔が充てられた。彼らが移転した先は、新たに入鹿出新田名づけられた。(下記の「入鹿出新田参照

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「入鹿池築造」を含む「入鹿池」の記事については、「入鹿池」の概要を参照ください。

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