停戦予備交渉と降伏文書調印式とは? わかりやすく解説

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停戦予備交渉と降伏文書調印式

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 23:30 UTC 版)

横山一郎」の記事における「停戦予備交渉と降伏文書調印式」の解説

終戦直後停戦予備交渉代表団一員選ばれマニラへ向かう。1945年昭和20年8月19日一行一式陸上攻撃機2機に分乗し木更津飛行場から出発した。この時期厚木航空隊中心に降服拒否する動きがあり、日本戦闘機撃墜され可能性があった。そのため厚木航空隊哨戒圏を避け飛行ルート選定し中継地として指定され伊江島向かった伊江島アメリカ軍用意したDC-4乗換えマニラ到着した帰途燃料不足により、天竜川河口付近不時着しながらも無事帰還することができた。 この予備交渉では連合軍進駐時期最大問題であった連合国側先遣部隊8月23日、最高司令部を8月25日としていたが、先遣部隊厚木到着8月28日決まった横山らが徹夜準備して提出した資料連合国側誠意認めたためであった。しかし厚木航空隊騒乱横山らが出発したときは終息しておらず、大兵力の撤収という技術的な問題もあり困難な事態には変わりがなかった。結局悪天候のため進駐は遅れ事態混乱避けることができた。関係者は「最後に神風吹いた」と安堵したという。 9月2日戦艦ミズーリ」の艦上行われた降服文書調印式にも横山随行した。どちらの任務米内から「最後ご奉公だ」と言われたという。ミズーリ艦上には旧知ターナー大将の姿もあったが、彼は横山気遣い顔を合わせないようにしていたと後日語った

※この「停戦予備交渉と降伏文書調印式」の解説は、「横山一郎」の解説の一部です。
「停戦予備交渉と降伏文書調印式」を含む「横山一郎」の記事については、「横山一郎」の概要を参照ください。

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