停戦予備交渉と降伏文書調印式
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「横山一郎」の記事における「停戦予備交渉と降伏文書調印式」の解説
終戦直後、停戦予備交渉代表団の一員に選ばれマニラへ向かう。1945年(昭和20年)8月19日、一行は一式陸上攻撃機2機に分乗し、木更津飛行場から出発した。この時期は厚木航空隊を中心に降服を拒否する動きがあり、日本の戦闘機に撃墜される可能性があった。そのため厚木航空隊の哨戒圏を避ける飛行ルートを選定し、中継地として指定された伊江島に向かった。伊江島でアメリカ軍が用意したDC-4に乗換えマニラへ到着した。帰途は燃料不足により、天竜川河口付近に不時着しながらも無事帰還することができた。 この予備交渉では連合軍の進駐時期が最大の問題であった。連合国側は先遣部隊を8月23日、最高司令部を8月25日としていたが、先遣部隊の厚木到着は8月28日に決まった。横山らが徹夜で準備して提出した資料に連合国側が誠意を認めたためであった。しかし厚木航空隊の騒乱は横山らが出発したときは終息しておらず、大兵力の撤収という技術的な問題もあり困難な事態には変わりがなかった。結局悪天候のため進駐は遅れ事態の混乱は避けることができた。関係者は「最後に神風が吹いた」と安堵したという。 9月2日、戦艦「ミズーリ」の艦上で行われた降服文書調印式にも横山は随行した。どちらの任務も米内から「最後のご奉公だ」と言われたという。ミズーリの艦上には旧知のターナー大将の姿もあったが、彼は横山を気遣い顔を合わせないようにしていたと後日語った。
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