俗論派の攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)
元治元年9月25日、山口政事堂で藩主敬親臨席の元、君前会議が開かれ正義派の代表格である井上聞多は武備恭順論・藩政改革を説いた。俗論派の抵抗により会議は紛糾したが、最終的に敬親が武備恭順を長州の国是とする事を言明して終わった。しかし会議からの帰途、井上は暴徒に襲われ重傷を負う。 9月26日、禁門の変を阻止出来なかった事に責任を感じていた周布政之助(麻田公輔)が自害する。聞多襲撃と周布自害は正義派に大打撃を与え、藩の要職を占めていた正義派は次々解任され、代わって登用された俗論派の幹部らが藩政府を掌握していく。 また幕府が長州征討を決定し西国諸藩に動員をかけたとの情報がもたらされる。俗論派は禁門の変を積極的に指導した正義派三家老、福原元僴、益田親施、国司親相を切腹させ幕府に降伏する事を主張した。これに対し長州正義派の一つである諸隊の幹部は三家老切腹反対の建議書を提出した。 9月30日、攘夷を理由に山口城へ居を移していた藩主親子の萩への帰還が決定する。諸隊は、俗論派の牙城である萩に帰還せず山口へ残留するよう藩主父子に建議書を提出したが無視された。
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