住宅開発による環境の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 07:28 UTC 版)
「千里丘陵」の記事における「住宅開発による環境の変化」の解説
1921年に千里山へ北大阪電気鉄道(後の阪急千里線)が十三から延び、大阪の郊外住宅地や別荘地として戦前から開発が進んだ。当時は千里山遊園などの遊園地もでき、関西大学も大阪市内から移転してきた。高度成長期、大阪万博がこの地で開催された。また時を同じくして大阪市内が過密化し、家を建てられる余地もなくなったため、郊外に住宅地の需要が増え、千里にも乱開発の手が伸びていた。大阪府は民間業者が細かい開発をする前に千里丘陵を大規模な住宅団地に開発して、しかも今後のモデルとなるような秩序あるまちづくりをしようと千里ニュータウン建設のマスタープランを立てた。以降、千里丘陵はあっという間に開発され、竹林や農地も大規模団地になってしまった。 さらに現在では、農村部ということで千里ニュータウンの範囲外になっていた山田や上新田に、大きな集合住宅や超高層マンションが多数建設されており、ニュータウンの部分よりも無秩序な開発になっている。その一方で、開発後植えた木が数十年たって大きくなり、緑豊かな景観ができ、また服部緑地や、千里南公園・千里北公園などニュータウン内の公園や緑地、ニュータウンの外縁部にある緑地帯などにもとの千里の自然環境の残っているところもあり、都会のオアシスとなっている。千里丘陵にわずかに残る自然の動物としては、万博公園用地内のキツネ。吹田市内のヒメボタル(小型のホタル)。千里丘陵内のため池に、ベニイトトンボ(準絶滅危惧種)などがいる。
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