伝説・発掘・現況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:37 UTC 版)
「兜塚古墳 (仙台市)」の記事における「伝説・発掘・現況」の解説
兜塚の名は、兜を伏せたような段々の形からついたと思われる。地元では、慶長6年(1601年)に近所で起きた小人騒動の死者を埋めたため小人塚(こびとづか)と呼ぶという説が17世紀のうちに生まれた。明治時代までの仙台の人々にはこの伝説で知られた塚で、古い地図には小人塚やコビト塚と書いたものもある。 しかし、明治時代の考古学者の目には既に古墳であることが明らかであった。問題はこれが円墳なのか前方後円墳の前方部が壊されたものなのかで、説が分かれていた。 1959年(昭和34年)、現在の宮城県仙台南高等学校の校地などに広がっていた宮城県農学校に勤務していた沼倉吉兵衛(仙台白菜の生みの親)の胸像が、農学校の同窓会によって古墳上に設置された。 1977年(昭和52年)に宮城県教員委員会が周囲の東側の発掘調査を実施し、馬蹄形の溝を発見したため、前方部が小さい帆立貝式の前方後円墳だろうということになった。続いて1988年(昭和63年)に南側も発掘されたが、主体部に調査は及んでいない。
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