伝説・芝居
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1840年(天保11年)に書き写された古記録『両和田村古今鏡』によれば、江戸時代初期の頃、上和田の領主・山中七左衛門が沓切坂で闇討ちに遭って殺害されたという。この出来事は村中を騒がせ、やがて「和田騒動」という芝居になった。 山中新右衛門殿子息七左衛門殿二代也 右七左衛門殿代二短絶之義者、大塚邑ニ井上玄番と申者有、家来ニ孫六と申者越持、主従盗賊人なり、有時正月之事成ニ、乞田村吉祥院より関戸村江年始ニ被参候処、くつきり坂ニ而玄番主従侍居て七左衛門越奉討、家来迄討ちころし急ぎ和田屋敷江参、裏門ニ玄番侍居て表門より孫六高声ニて七左衛門殿ハ御上意越もって只今討れさせ給ひ候、何方へも思召ノ方江早々落させ給へ御注進とため御知らせ申候と、たからかに申候折節奥方ハ昼之八つ時の事なる歟、髪越洗ひていら連しが、あいて騒き、みだし髪ニて急ぎ早々取持、下女壱人召つれ裏門ニ出給う所越、玄番なさけなくも討候て、品々越はく取、日暮山江引取候也、然ル所ニ此もの後ニ他言致候て、露顕之懼無心元思ひて彼ノ孫六越即討すて申、依之其山越今ニ孫六山と申なり、此時山中氏断絶なり、是ハ井上玄番年寄の、ざんげの物語印置く — 『両和田村古今鏡』
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