他の製作会社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 07:52 UTC 版)
1920年代、スオミ・フィルムがフィンランドにおける映画製作のほとんどを担っていた。1919年から1930年にかけて製作された長編映画37本のうち、23本がスオミ・フィルム製作であった。他の製作会社は1本か2本を製作した後、消えてしまうことが多かった。ドイツ人撮影監督の Kurt Jäger はスオミ・フィルムを去り、コメディア・フィルム(Komedia-Filmi)を立ち上げた。この会社は、当時フィンランドにおける映画配給のほとんどを手がけていた国際的な映画トラストの Ufanamet と関連があり、スオミ・フィルムの手強いライバルとなるかに思えた。スオミ・フィルムは自身の国家的価値を強調し、コメディア・フィルムと Ufanamet を外国からの侵入者と呼んだ。スオミ・フィルムにとって幸運なことに、コメディア・フィルムも Ufanamet も成功せず、結局コメディア・フィルムは2本の映画しか製作しなかった。2本目はKurt Jäger とRagnar Hartwall監督の "On the Highway of Life" (1927)で、モダンなコメディを製作しようという試みであった。 1929年、小規模な製作会社Fennicaが手がけ、後にフィンランド映画史でも重要な映画監督となるヴァレンティン・ヴァーラ(Valentin Vaala)が監督した作品が2本公開された。ヴァーラが最初の映画 "Dark Eyes" を作り始めたとき、彼はたったの17歳で、主演のトイヴォ・ツリオ(Theodor Tugai)は14歳であった。この作品と、すぐに製作されたリメイク版"The Gypsy Charmer" はオリエンタルなものに影響を受けた情熱的なドラマで、これまでにないものであった。だが、現在では"The Gypsy Charmer"しか残っていない。何故なら、リメイク版の方が出来がいいと思った監督が、元になった "Dark Eyes" のネガを自分で海に捨ててしまったからである。 首都以外でも映画製作の試みはあったが、ヴィープリやオウルで製作された映画はヘルシンキで上映されるには質が低かった。しかし、現在残っていないが、Uuno Eskola監督で、アクイラ・スオミ (Aquila-Suomi) によってタンペレで製作された "No Tears at the Fair" (1927)と "The Man of Snowbound Forests" (1928)はまずまずの出来であった。タンペレにおいて長期的に活動した製作会社はないが、しかしアクイラ・スオミのプロデューサーであった Kalle Kaarna は映画監督としての才能を現した。最初に監督した "With the Blade of a Sword" (1928) は1918年に起きた内戦を中立的な視点から描き、2本目の "A Song about the Heroism of Labour" (1929)はプロレタリア階級の新しいヒーローを登場させている。しかし、この2本の映画も失われてしまった。
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