人体冷凍保存というムーブメントの始まり
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「ロバート・エッチンガー」の記事における「人体冷凍保存というムーブメントの始まり」の解説
エッチンガーは、著名な科学者や医師が彼と同じ結論に達するのを期待した。しかし1960年になっても、そのような者は現れなかった。42歳となったエッチンガーは、自分の死をより強く意識するようになった。そして、自ら動き出すことを決めた。彼は人体冷凍保存のアイデアを(生命保険への影響も含めて)数ページにまとめ、Marquis Who's Whoから彼が選んだ約200人の人々にそれを送った。反応はほとんどなく、彼はもっと詳しい説明が必要なのだと判断した。死は絶対的なものではなく、凍結によるダメージは限定的で将来的には問題なく解凍する技術が登場するだろうという彼の信念を人々に理解してもらうには、ある種の教育が必要だとエッチンガーは考えた。彼はすぐにさらに根本的な悩ましい問題を発見した。すなわち、「生が死よりもよく、健康が病気よりもよく、賢いほうが愚かなほうよりもよく、不老不死がそれにつきまとう障害を克服するに値する、ということを非常に多くの人に認めさせなければならない」ということである。 1962年、エッチンガーは『不死への展望』の初版を自費で出版した。これが大手出版社の目にとまって1964年にはダブルデイからハードカバーで出版されることになり、これが人体冷凍保存が広く世に知られるきっかけとなった。当時、人体冷凍保存を考えていたのはエッチンガーだけではなかった。1962年、Evan Cooper が N. Durhing という筆名で Immortality, Scientifically, Physically, Now と題した本を書いていた。Cooper の本も主張はエッチンガーのものと同じだったが、科学的・技術的厳密さに欠けていて、出版できるレベルではなかった。エッチンガーは時の人として、ニューヨーク・タイムズ、タイム、ニューズウィーク、パリ・マッチ、デア・シュピーゲル、Christian Century など様々な雑誌や新聞に取り上げられた。テレビ番組にも登場した(ジョニー・カーソンショーなど)。また、各地のラジオ番組にも積極的に出演し、人体冷凍保存の考え方を普及させようとした。
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