中核派と革マル派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 04:47 UTC 版)
内ゲバの最も代表的な事例。死傷者数がその他の内ゲバよりも突出しており、両派ともに新左翼の学生運動・大衆運動で新左翼のうち最大で拮抗していたことによる。両派はもとは同じ組織であったことも「内ゲバ」という現象を印象づけた。1960年代の分裂後内ゲバが頻発し、1970年代に入り殺し合いの状態になり、全国の大学や職場、路上で内ゲバが繰り広げられた(東京教育大学生リンチ殺人事件、関西大学構内内ゲバ殺人事件、川口大三郎事件、琉球大学内ゲバ誤認殺人事件等)。特に1975年に革マル派が中核派の最高指導者を殺害(中核派書記長内ゲバ殺人事件)以降は、中核派の革マル派に対する内ゲバはさらに熾烈を極めた(川崎市女子職員内ゲバ殺人事件等)。1990年代に入って、両者の内ゲバは次第に沈静化し、21世紀になると労働組合や市民団体などの大きな集会で中核・革マル両派が並んで穏やかにビラを配る光景も見られるようになった。革マル派公式Webサイトでの中核派等批判ページ「謀略粉砕・走狗一掃」は2004年を最後に更新が無く、中核派公式Webサイトでの革マル派批判ページ「カクマル批判アーカイブ」は2017年を最後に更新が無い。1990年代初めに中核・革マル両派最高幹部が内ゲバ終結で手打ちしたとも言われるが、真相は不明[要出典]。
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