不平等条約の改正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 13:57 UTC 版)
「ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇」の記事における「不平等条約の改正」の解説
ペリーの来航によって、日本は日米和親条約、更に日米修好通商条約という不平等な条約を結ばされた。これら条約を改正することは、明治政府の急務であった。しかし政府は欧米に対して弱腰であるばかりでなく、積極的に日本を欧米化しなければならないと考えていた。その象徴が鹿鳴館である。政府がこのような姿勢だったため、条約改正案でも日本に不利な内容を突き付けられた。その最たるものが、日本の大審院(現在の最高裁判所)に、外国人判事を任命する規定である。 こうした政府の態度に国民は怒りを募らせた。頭山満やその周囲でも、条約改正を阻止するための議論が激しくなった。しかし打開策は見つからなかった。そして明治22年(1889)10月18日、来島恒喜が大隈重信に爆弾を投擲する事件が起きる。来島はその場で自決。これにより、条約改正は阻止された。頭山は来島に対して、「天下の諤々は君が一撃にしかず」という賛辞を送っている。
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