三好氏への再戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:57 UTC 版)
弘治4年(永禄元年、1558年)2月、朝廷は正親町天皇の即位のため、年号を永禄に改元した。だが、京から離れた朽木にいた義輝は改元を知らされておらず、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなったため、朝廷に抗議している。改元は戦国時代といえど、朝廷と室町幕府の協議の上で行われてきたが、朝廷は義輝に相談せず、三好長慶にのみ相談して改元を実施していた。 3月13日、義輝は改元の一件もあって、三好政権打倒のため、朽木で挙兵した。義輝は朽木で挙兵したのち、龍花に向かい、4月には和邇に移った。 5月3日、義輝は六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り、本誓寺に入って、京の様子を窺った。 6月2日、三好方は義輝の挙兵を受けて、近江から京に向かう要衝であった将軍山を占拠し、2千の兵を以て布陣させた。対して、義輝は細川晴元や上野信孝らとともに5千の兵で坂本から如意ヶ嶽に移動し、ここに布陣した。 同月7日、三好勢は三好長逸や松永久秀など各地の将兵が集まり、1万5千の兵の大軍となっていた。これを見た将軍山の三好軍が営塁を焼いて、京の三好本軍に合流したため、義輝は将軍山へと入った。すると、三好軍は義輝が布陣していた如意ヶ嶽に向かい、ここを焼き払った。 9日、三好軍が義輝の布陣する将軍山を攻撃し、義輝は京の東郊外・北白川各所で迎撃した(北白川の戦い)。義輝は寡兵であっために苦戦を強いられ、幕臣70名が討ち取られる被害を受けたが、三好側も多くの死傷者を出して後退した。また、今回の戦いで本願寺は参戦しなかったが、三好軍は義輝と本願寺の同盟によって、背後を本願寺に突かれるかもしれないという不安もあったため、その動きが鈍った。 義輝はこうした三好軍の動きをみて、将軍山に城館を築き、長期の籠城戦を決めた。その後、夏が過ぎ、秋になっても膠着状態が続いたため、義輝と長慶は和睦を考えるようになった。11月に六角義賢が両者の仲介を務め、和睦を斡旋した。 12月3日、義輝は長慶との間に和睦が成立したことに伴って、将軍山から京へと向かい、二条法華堂に入り、ここを御座所とした。これにより、5年ぶりの入洛が実現し、直接的な幕府政治を再開した。同月23日には、伯父の近衛稙家の娘(大陽院)を正室に迎えている。 永禄2年(1559年)7月8日、義輝は上京と下京の2つの町の中間点・勘解由小路烏丸に、新御所の建設を進めた。この御所は殿舎のみならず、堀などの防衛設備も整えられ、永禄3年(1560年)6月19日にここに移動した。
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