三好氏時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:37 UTC 版)
三好長慶は父・元長の従弟に当たる芥川孫十郎を城主につけた。しかし天文22年(1553年)7月、孫十郎に謀反の疑いありと判断した長慶は芥川山城を包囲、8月12日、孫十郎は篭城戦の末に兵糧がつきて降伏した。孫十郎が退去した後は長慶自身が入城し、摂津における拠点としてここから各地に出向いていった。この頃にも芥川山城は再び防御施設を拡張していったと思われる。永禄3年(1560年)に長慶は河内飯盛山城へ移り、息子の三好義興が城主となった。 しかし永禄6年(1563年)8月に義興は22歳で急死し、翌永禄7年(1564年)7月、息子の後を追うように長慶も飯盛山城で没した。 義興以後は三好長逸が城主になっていたようだが、永禄11年(1568年)9月28日(または30日)に織田信長が摂津に侵攻、高槻の天神馬場に陣取り芥川山城を攻撃、その日のうちに落城し長逸は細川昭元を連れて阿波国へ逃れた。
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