ローマの反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 13:56 UTC 版)
「ヘルドニアの戦い (紀元前210年)」の記事における「ローマの反応」の解説
この勝利はしかしながら、ハンニバルに戦略的な利点はもたらさなかった。長期的に見てヘルドニアは保持できないと判断し、住民を南のメタポントゥム(Metapontum)とスリウム(Thurii)に移住させ、都市自体は破壊した。それに先立ち、ハンニバルを裏切りケントゥマルスに寝返ろうと共謀していた著名な市民を処刑した。夏の残りの間、ハンニバルはもう1つのローマ軍を撃退することを余儀なくされた。マルケッルスとの次の戦いはヌミストロで行われ、決着はつかなかった。ハンニバルはこの作戦開始時に失われたポジションを取り戻すことはできなかった。 ヘルドニアでの2度目の敗北の後も、ローマ元老院はその好戦的姿勢を変更しなかった。カンナエの戦いの敗北後と同様に、敗残軍に対して懲罰的な処置を実施した。4,000以上がシチリアに送られ、カンナエでの敗残兵と同様に戦争終了までシチリアに留めおかれた。しかしこの処置は望ましくない結果を引き起こした。兵士の多くはラテン語系同盟都市出身であったが、イタリアでの継続的な戦争に10年以上駆り出されていたこれらのラテン都市国家にかなりの不満を引き起こした。ローマは30の都市に対して追加の人材と資金の提供を求めたが、その内12都市はこれを拒否した。この危機は5年間続き、ローマの戦争遂行能力に深刻な影響を与えた。
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