リストとの出会い
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「カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン」の記事における「リストとの出会い」の解説
カロリーネは1847年、キエフのチャリティコンサートで作曲家フランツ・リストと知り合った。カロリーネはリストの音楽的才能に深く感激し、リストの『ダンテ交響曲』の劇場演奏の実現についての計画に、人脈的にも経済的にも支援を惜しまないことを約束した。この交流を通じて2人はだんだんと親密になっていった。リストが2度ほどヴォロニンツェを訪問した後にキエフを去ると、カロリーネは自身の所領を100ルーブルで売りに出し、1848年4月に一人娘を連れて大わらわでロシアを出国し、フェリックス・フォン・リヒノフスキー侯爵の所領に滞在していたリストの元に走った。2人はこの一連の流れの間に男女の関係になった。 リストはこのときマリー・ダグー伯爵夫人(彼女との間にはコジマ・ワーグナーなど3人の子供がいた)との関係を清算したばかりだったが、自分を追ってきた侯爵夫人カロリーネの愛に報いた。2人はそのままリストが宮廷楽長として招聘されていたザクセン大公国の首都ヴァイマルに移住した。ヴァイマル郊外のアルテンブルクでの13年間の同居生活のあいだ、カロリーネはリストをあらゆる面で援助し、支え続けた。 カロリーネのリストに対する影響力の大きさに関しては、歴史家たちの間で議論が続いている。一説によれば、リストが発表したフレデリック・ショパンの伝記の本当の著者は、カロリーネだったと言われる。確実なのは、カロリーネがリストの数多くの作曲にインスピレーションを与えたこと、そして新たな生き方の方向性を指し示したことである。それ以前のリストはさすらいの旅を続け、多くの女性との情事を楽しみ、勤勉な作曲家というよりは魔人めいた巨匠というおもむきであったが、カロリーネに出会ってからは明晰な考え方をする生真面目な仕事人間に変貌した。 日曜日ごとに行われるマチネでは、リストはカロリーネの呼んだ芸術家たちと親しく交流した。リストはリヒャルト・ワーグナーやエクトル・ベルリオーズとの演奏を楽しんだ。カロリーネはベルリオーズとは特に仲が良く、ベルリオーズは侯爵夫人に『トロイアの人々』を献呈したと言われる。
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