ラーフェンブスリュック強制収容所
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「ジュヌヴィエーヴ・ド・ゴール=アントニオーズ」の記事における「ラーフェンブスリュック強制収容所」の解説
1943年7月20日、ジュヌヴィエーヴ・ド・ゴールは仲間の密告によりパリ6区の書店で他の約50人の活動家とともに逮捕された。非合法文書の「郵便受け」と呼ばれていた書店であった。彼女はガリアという偽名を使い、偽造身分証明書を持っていたが、逮捕されたとき「ジュヌヴィエーヴ・ド・ゴール」としての身元を隠さなかったという。彼女はフレンヌ刑務所(フランス語版)に6か月間拘留された後、ロワイヤリュー通過収容所(フランス語版)(コンピエーニュ)に送られた。1944年1月30日、27000輸送部隊で移送され、2月2日にラーフェンブスリュックに収容された。27000輸送部隊とは収容者番号27000番台の女性たち959名の一団で、ジェルメーヌ・ティヨンの母エミリー・ティヨン(フランス語版)も同じ列車で移送された。ジュヌヴィエーヴ・ド・ゴールの収容者番号は27372であった。彼女は生還後50年以上にわたって回想録の執筆を勧められていたが拒否し続け、78歳のときにようやく執筆を開始し、60ページほどの著書を2~3週間で一気に書き上げた (回想録『夜を通り抜けて』)。 ラーフェンブスリュック強制収容所でティヨンのほか、ジャクリーヌ・ペリー・ダランクール(フランス語版)、アニーズ・ポステル=ヴィネ(フランス語版)、マリー=クロード・ヴァイヤン=クルティエ(フランス語版)らの他の女性レジスタンス活動家と親交を深め、ナチス体制について分析し、対独抗戦の方策を練った。彼女たちはいずれも生還を果たし、それぞれ思想的立場は異なるものの、生涯にわたって活動を共にすることになった。解放前の最後の数か月は、彼女が「掩体壕」と呼ぶ独房に隔離された。ド・ゴールの姪がラーフェンブスリュックに収容されていると知ったハインリヒ・ヒムラーが、彼女を生かしておいてド・ゴールとの交渉の取引材料にしようと考えたからである。彼女は熱心なカトリック信者であったが、後に回想録に「どういうわけか神が存在しなかった。神の存在を疑ったとは言いたくないけれど、この掩体壕には神がいなかった」と書き、またこの経験から、「人間が犯し得る最も恐ろしい犯罪は人間性の破壊である」と繰り返し語っている。
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