ミラノにて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/15 06:06 UTC 版)
「フランチェスコ・スフォルツァ」の記事における「ミラノにて」の解説
1425年、フランチェスコはミラノ公国のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ(英語版)に仕え始めた。スフォルツァとヴィスコンティの関係はどちらかというと悪い関係で、公は、たとえしなくてはならなくても傭兵隊長の強い個性に耐え切れなかった。いくつかの戦いに勝利したスフォルツァは1428年から1429年の気まぐれな公の好意を待つ間に留まった場所であるモルターラを与えられた。またある時には最良の司令官として公国の危機を救った。その褒美としてフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ公は庶出の娘ビアンカ・マリーアを彼に託した。 1447年にフィリッポ・マリーアが後継ぎを残さずに死ぬと、ミラノ領は共和制の政府が樹立された(アンブロジアーナ黄金共和国(英語版))。しかし1450年3月22日(3月25日の説もある)、ミラノを長らく包囲し兵糧攻めを行っていたフランチェスコは、ミラノに入城することに成功した。 都市の近代化や効率的な税制は政府の収入の著しい増大をもたらしたことは、フランチェスコが良い支配者である事を示している。 彼の宮廷は芸術と文化の中心となりミラノ人の間でとても人気となった。 傭兵隊長たちの中には、1452年から1453年にヴェネツィア共和国の将軍となるバルトロメーオ・コッレオーニ(Bartolomeo Colleoni)が参加していた。 コジモ・デ・メーディチとの相互評価と友好関係で、ミラノとフィレンツェは同盟関係にあり、ヴェネツィアとのローディの和の実現をともに成し遂げた。 ニッコロ・マキャヴェッリは『君主論』において、良い政府の例と傭兵隊の使用に対する訓戒として、しばしばフランチェスコを引き合いに出した。
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