ミスタープロ野球とは? わかりやすく解説

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長嶋茂雄

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 02:03 UTC 版)

長嶋 茂雄または長島 茂雄[注 1](ながしま しげお、1936年昭和11年〉2月20日 - ) は、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)・監督読売ジャイアンツ終身名誉監督株式会社読売巨人軍専務取締役日本プロ野球名球会顧問、ジャイアンツアカデミー名誉校長。


注釈

  1. ^ 氏名の表記には2種類があり、どちらも正式なものである。詳細は後述
  2. ^ 『姓氏』(著者:丹羽基二、監修:樋口清之)p237.によると、長嶋氏は桓武平氏良文流千葉氏の末裔と述べている。
  3. ^ 京成電鉄は1947年頃までは後に入団する読売ジャイアンツの筆頭株主でもあった。その京成電鉄では1977年末に自社で発売した「昭和五十三年成田山参拝記念乗車券」に第1次巨人監督時代の長嶋を起用している。
  4. ^ 長嶋が大学を辞めてプロ入りするかもしれないということを察知した阪急ブレーブス丸尾千年次スカウトが長嶋宅を訪ねている[20]
  5. ^ 砂押から特別扱いされていた長嶋は先輩から嫌われ、事あるごとに表向きは指導の名での暴力という形でいじめを受けていた。連帯責任で野球部の同級生全員が被害に遭うことも少なくなかった。
  6. ^ 近藤唯之は自著『プロ野球 運命の出会い』 (2006) で、「長嶋は2年生になった直後、東長崎グラウンド(当時の立教大学野球部グラウンド)で練習中、4年生の先輩から因縁をつけられて胸を殴られ、これに激昂してバットを持ち出し、4年生たちに喧嘩を挑んだ。2年生の同級生たちも長嶋に加勢した一方、4年生たちも全員がバットを持ち出して乱闘になりかけたが、最終的には4年生が先にバットを収めた。先に手を出した4年生は学校側から厳重説諭を受けた一方、長嶋は『退部、3か月間の出場停止、合宿所“智徳寮”を出る』など、厳しい処分案も出たが、当時の長嶋は父が死去するなど、家が貧しかったことや、きわどいバット事件だったことから『合宿所智徳寮で謹慎1週間、毎晩1時間にわたる4年生からの説教』という処分に落ち着いた」と述べている[22]。一方、坪内道典は自著『風雪の中の野球半世記』 (1987) で「砂押監督のスパルタに嫌気がさしたからのようだ」と述べている[23]
  7. ^ 2人はともに「プロでやるなら一緒に」と誓い合っていた[24][25]
  8. ^ 杉浦が中日に入団しようとした理由について、長嶋や杉浦にとって立教大学の先輩に当たる坪内道典(中日OB)は自著『風雪の中の野球半世記』 (1987) で「(杉浦の)地元球団だったからだろう」と推測している[23]ほか、元中日球団代表・高田一夫(任期:1961年 - 1964年)は「杉浦は『愛知県出身だから、中日ファンだ』と言っていた」と証言している[26]。後に杉浦は坪内から真偽について問われ「そんなことがありましたねえ」と話した[25]ほか、長嶋も高田と親交のあった近藤唯之からこの件について問われて動揺を見せている[26]
  9. ^ 坪内は自著で、杉浦と長嶋が中日の球団事務所を訪れて入団を願い出た出来事について「1955年9月、杉浦・長嶋は2人で東京・西銀座の中日球団事務所を訪れ、応対した中村三五郎球団代表に対し『中日に入団させてほしい』と申し出たが、中村から諭されて帰された」と述べている[23][25]。一方、近藤は親交のあった高田一夫(当時:球団代表代行)の「2人は2年生の暮れごろ、名古屋の中日本社に突然がやってきて『中日に入団させてほしい』と申し出た。しかし、球団代表代行を務めていた自分が『とにかく卒業してからこい。大学生は勉強が本分なんだから』と説教した」という証言を取り上げている[27]
  10. ^ この逸話を取り上げた杉井輝応は、長嶋と親交のあった鶴田浩二について取り上げた自著『鶴田浩二』 (1997) で「(もし2人の中日入団が実現していたら、杉浦が入団した)南海の御堂筋パレード(優勝パレード)は名古屋の広小路(優勝)パレードになっていたかも知れない。(長嶋が入団した)巨人のV9は中日のV9になっていたかも知れない。中日は惜しい逸材を逃したものだ」と述べている[28]。また、近藤 (2006) は「中日は長嶋と杉浦を自分から無料でいいというのに、とり逃がしてしまった」と[26]、坪内 (1987) も「(もし中日に入団していれば)長嶋は『ミスター・ドラゴンズ』になるところだったが、中日は大魚(後に球史に残るスーパースターになった2人)を2匹逃した。中村代表は1956年ごろ、このことを悔しがってみんなに話していた」と述べている[29]。中日球団の親会社である中日新聞社が発行する『中日スポーツ』の記者・増田護 (2020) は「巨人と南海でともに新人王になる2人(長嶋と杉浦)をそのまま入団させていれば間違いなく中日、いやプロ野球の歴史が変わっただろう。そこまでのスターになるとは思っていなかったのかもしれないが、筆者は迷える大学生を説教して追い返した中村代表に敬服する。」と述べている[25]
  11. ^ この記録を前に持っていたのは、1930年宮武三郎慶大阪急軍初代主将としても活躍。)、1936年呉明捷早大。2014年の台湾映画KANO 1931海の向こうの甲子園』では準主役的な存在として描かれた。)で共に7本塁打を打っていた。
  12. ^ 大映スターズオーナーの永田雅一が卒業後の獲得を目指して大学1年生の時に長嶋と実家で面会し「優勝するチームで野球がしたい」と言われたことがNHKテレビの『その時歴史が動いた』(2005年2月9日放送分)で紹介されている[31]
  13. ^ 阪神タイガースのスカウト青木一三は大学を中退させての獲得に向けて本人や家族と交渉した[32]が、藤村排斥事件を受けて頓挫している。
  14. ^ 広島カープも長嶋を広島観光に誘うなどしていた。
  15. ^ 長嶋は、父が亡くなってから行商をするなどして家計を支えた母親を非常に尊敬しており、母親の懇願を断ることが出来なかったという。
  16. ^ 当時は川上の背番号16は永久欠番に指定されておらず、その8年後の1965年に指定された。
  17. ^ このケースでは、長嶋は二塁を踏んだ瞬間に一塁を踏み直すことが許されなくなり(公認野球規則7.10(b)(2))、投手がボールを保持してプレーがかかったのち、投手が最初の投球をする前に一塁手の藤井弘が送球を要求し、鵜狩から送球を受けて触塁しアピールし、一塁塁審の竹元勝雄がアウトを宣告した[36]。この場合、投手に補殺、一塁手に刺殺が記録され、記録上投手ゴロと同じためこのように伝えられている。
  18. ^ 1946年から1960年までの正式な球団名称は「大阪タイガース」であったが、この間も略称として「阪神」が、通称として「阪神タイガース」が使われていた。
  19. ^ 川上哲治の記録を6年ぶりに塗り替え、王貞治に抜かされるまで5年間保持。
  20. ^ 外様を含めると2004年に小久保裕紀が41本塁打を打ち、巨人軍史上初の右打者の40本塁打を達成。2010年にはアレックス・ラミレスが49本塁打を打ち小久保の記録を更新及び巨人の外国人右打者のシーズン最多本塁打となった。
  21. ^ なお、この年以降巨人の右打者の首位打者獲得は2009年にアレックス・ラミレスが、日本人右打者に限定すれば2011年に長野久義が獲得するまで非常に長い年数が経っていた。
  22. ^ a b 当時のスピーチの草稿(長嶋が述べた言葉を知人男性が書き記したもの)には「永遠に不滅」と書かれており、実際の引退試合で発した「永久に不滅」はそれを長嶋が読み間違えたものだった[49]
  23. ^ 戦前にはフィリピン人のアデラーノ・リベラが1年間ではあるが在籍した。同じく戦前に在籍したヴィクトル・スタルヒンはロシア系であるが日本の学校への在学歴がある。「学歴まで含めて外国で育った非日系の外国人選手」としてはリベラに次いで2人目となるが、戦後に限定すれば初めてとなる。
  24. ^ 現役引退前後の頃にも同様の発言をしたことがあり、「野球というスポーツは、人生そのものだと僕は思います。失意と得意、成功と失敗が常に背中合わせになっています。勝者が笑う陰には、常に敗者がいます。栄光の陰に、数知れぬ挫折があります」と語っている(沢木耕太郎著「三人の三塁手」)。
  25. ^ 後に長嶋は阿川との対談で、「(意識は)なかった。もう(状態は)上中下の下で、一番悪かったですからね。その下は死ですから」と語っている。阿川、2011
  26. ^ 長嶋は一茂の判断について「一番悪い状態の時でしたからね」と理解を示しながら、誰が何と言ってもアテネへ行くつもりがダメになったことへのショックと孤独を語っている。阿川、2011
  27. ^ 同プロジェクトは2010年まで毎年1月に開催されていた。
  28. ^ この内容が2011年に単行本となっている。阿川、2011
  29. ^ 庵原英夫『正しい技術 勝つ作戦のコツ 野球ルール』(有紀書房、1987年) p64-65。公認野球規則の6・02a(打者の義務)では打者は自分の打順がきたら速やかにバッタースボックスに入って打撃姿勢をとらなければならないとされているが、「バットを持って」とは明記されていない。このときの球審は長嶋がバットを持っていなくても素手で構えたため打撃姿勢をとったものとみなし、四球の判定を下しているが、バットを持っていなければ投手の投球を打ち返すことは不可能であり、庵原は長嶋のこの行為に対して、球審によっては打撃姿勢をとっていないとみなす可能性があることを同書内で指摘している。なお打者が打撃姿勢をとろうとしない場合、球審は投手に投球を命じ、どのような投球であってもストライクを宣告することができる。このため、もし球審が打撃姿勢をとっていないとみなした場合、素手で構えて以降の投球は全てストライクとなり、ストライクを3回宣告されるまでに打者が打撃姿勢を取らなかった時には、アウトを宣告される。
  30. ^ このことは広岡達朗堀内恒夫が証言している。
  31. ^ ビートたけしは長嶋の守備について、「長嶋が登場するまでは、巨人の守備になるとみんな便所にいってたんだよ。つまり守備は見る必要がないって思ってたんだ。でも長嶋が登場してからは、あの守備が見たくてさ。便所すら行けなくなっちゃったよ(笑)」と述べている。
  32. ^ 引用中、( )内は記者による描写。当時は前年の安保闘争の記憶が生々しい時期で(長嶋もインタビューで「昨年の安保のときから(引用者注:政治面に)興味もつようになったんです」と発言している)政権交代をうかがわせる雰囲気があった。
  33. ^ 玉木正之の『プロ野球大事典』(1990年、新潮文庫)では、東急フライヤーズ一言多十が映画『七人の侍』を「七人のマチ」と言ったエピソードから、多くのコラムニストが他のプロ野球選手にこれを付会させたエピソードを「創作」し、その「被害」が最も多いのは長嶋であろうと記されている(P470)。同書には1979年のあるエッセイで、長嶋が同じ黒澤明監督の映画『野良犬』を「ノヨシケン」と呼んだと書かれている例が紹介されている(P441)。
  34. ^ ただし、板東のこの行為は巨人ファンから批判を受け、加えて当日の放送ではこれ以外にも複数の問題を起こしていたこともあり、板東は同年中にCBCの解説者契約を打ち切られた。本人の項も参照。
  35. ^ 長嶋の編著「野球は格闘技だ」にも同内容のコメントを寄せている。なお、この話は石原を通じて役者内でも広がったとされ、勝新太郎も同著内でその話に触れたコメントを寄せている。
  36. ^ 長嶋は不振に陥った入団2年目の山本一義を自宅に呼び寄せ、自らの試合前ルーティーンを山本に見せることで激励をしたとされる。その時の様子を山本は「朝十時に家に着くと、長嶋さんは散歩から帰って柔軟体操をしているところだった。長嶋さんは私を一瞥すると、『そこに座ってろ』という。<中略>ノートを出してきて『今日の先発は大石かな、大羽かな』と一人ごちて、この二人と前回対戦した時の配球を調べている。『1球目がカーブで、2球目がシュートか』とノートを読んで予備知識を入れたかと思えば、スクッと立ち上がって球場に行く準備を始めたのであった。<中略>正直なところ、"動物的勘"や"天性の資質"でプレーすると言われていた長嶋さんは、毎日遊び惚けて野球をやっているのかと思っていた。とんでもない間違いだった。あの頂点に立っている長嶋さんは、毎日試合前に必要な準備をして臨んでいるからこそ、あの光り輝くプレーができているんだということに気づいた時、ハッとさせられ、深く反省させられた」と回想している(「わが人生、わが野球道(Vol.15)」著・山本一義 月刊The Carp 1992年5月号(No.54))。

出典

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