マルヒェック - ブラチスラヴァ鉄道線の開業
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「ブラチスラヴァ - ブジェツラウ線」の記事における「マルヒェック - ブラチスラヴァ鉄道線の開業」の解説
オーストリア帝国時代の1840年代、当時急成長を続けていたハンガリーの各種輸出産業に寄与するウィーン・ブダペスト間鉄道の建設構想が持ち上がり、ウィーンからブラチスラヴァを経由してブダペストに至る鉄道路線が企画された。このうちブラチスラヴァまでの区間では、ドナウ川の左岸(北側)はブラチスラヴァ市街地北西部に広がる小カルパチア山地が川岸まで迫る難所、右岸(南側)は恒常的にドナウ川の氾濫に見舞われやすいという課題を共に抱える中、両岸の関係者でルート選定の綱引きが続いた。 ハンガリー中央鉄道会社(MKpV, Magyar Középponti Vaspálya Társaság)は1844年、当時のオーストリア・ハンガリー国境であったマルヒェックを起点とする左岸ルートの権利を譲受して建設工事に着手した。小カルパチア山地の麓をスロバキア初となる鉄道トンネルとなったラマチュトンネルを建設して抜けるなど難工事の末、マルヒェック - ジェヴィーンスカノヴァーヴェス - ブラチスラヴァ中央駅間が蒸気鉄道として1848年8月20日に開業した。 1850年にブラチスラヴァ - ヴァーツ間が開業し、同年12月16日からブラチスラヴァ - ブダペスト間の列車運行が開始されたが、経営難であったハンガリー中央鉄道は同年国有化されてオーストリア帝国鉄道南東部鉄道に編入された。さらに1855年のオーストリア帝国鉄道売却に伴い、フランス資本が設立したオーストリア国家鉄道(のちオーストリア=ハンガリー国家鉄道、StEG)に移管された。1870年にStEGがマルヒェック東部線(ウィーン=シュタットラウ - マルヒェック間)を建設し、開業から20年余りを経てウィーン方面とも直結。1883年に運行を開始したオリエント急行のルートともなり、1902年には第二ラマチュトンネルを建設して同区間を複線化した。
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