マルティニーク島の海戦
マルティニーク島の海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/02 05:49 UTC 版)
「ジョシュア・ロウリー」の記事における「マルティニーク島の海戦」の解説
詳細は「マルティニーク島の海戦」を参照 ジョージ・ブリッジズ・ロドニー提督がイギリスから基地の指揮を執るため到着し、ロウリーは旗艦を74門艦のコンカラーに移した。この艦で4月17日の、マルティニーク沖でのブースィ提督との戦闘で前衛隊を率い、フランス軍の前衛部隊を5月15日と19日の戦いでそれぞれ窮地に追い込んだ。しかし、この時三席指揮官であったのロウリーは、敵の隙につけ入らなかったとされ、ロドニーから暗に批判された。この後ロドニーはロウリーを10隻の戦列艦と共にジャマイカに戻し、ピーター・パーカー(英語版)への援軍とした。この植民地がスペインからの攻撃で差し迫った状態だったからである。
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