ヘーチマン権力の弱体化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 07:06 UTC 版)
「ヘーチマン」の記事における「ヘーチマン権力の弱体化」の解説
このときから、右岸ウクライナは共和国、オスマン帝国、古儀式派コサックとが互いに争い合う闘技場となった。この戦いにおいてヘーチマンの称号は濫用されるようになり、敵国同士となった子分の間で代わる代わるに使われた。このような状況下で右岸ウクライナにおけるヘーチマン権力は著しい低下を来たした。1704年には、反共和国派の蜂起とスウェーデン軍のポーランド侵攻を利用し、左岸ヘーチマンのイヴァン・マゼーパが右岸を占拠した。 左岸ウクライナにおいては、ヘーチマンの全権には次第に制限が加えられるようになっていった。それは、事実上ウクライナ分割の直後から始まった。ヘーチマンにはふたつの側から圧力が加えられるようになった。ひとつはロシア政府からで、ロシアは絶えずしてヘーチマン権力を縮小する試みを続けた。もうひとつはコサック長老衆で、彼らもまたヘーチマンがあまりに大きな権力を持つことは望んでいなかった。その結果、ヘーチマンは彼らのあいだをうまく泳ぎ切る必要に迫られたが、そのために譲歩した例は数知れず、次第にウクライナにおける権力を失っていった。 ウクライナ分割後、右岸ヘーチマンはチヒルィーンに留まった。一方、左岸ヘーチマンはハージャチ、フルーヒウ、バトゥールィンに居を転々とした。 大北方戦争においてマゼーパがスウェーデン側に寝返ると、ロシアによるヘーチマン権力の縮小に拍車が掛かった。マゼーパの次のイヴァン・スコロパードシクィイがヘーチマンであった1709年には、ヘーチマンのそばには彼を監視するためのロシアの役人が置かれることになった。1720年には総軍事務局が置かれ、1722年にスコロパードシクィイが死去すると、小ロシア省が置かれて事実上ヘーチマンの全権は消滅した。長老衆は新ヘーチマンの直接に選出することを禁じられ、そのうえこの問題についてツァーリにあえて異議を唱えた幾人かの長老衆は投獄された。 1710年4月5日には、マゼーパの支持者は国外にてプィルィープ・オールルィクをヘーチマンに選出した。彼は、死去する1742年までこの地位を維持した。
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