プロイセン参謀本部の地位向上
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「第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」の記事における「プロイセン参謀本部の地位向上」の解説
戦争当初のプロイセン参謀本部はまた権威も権限も少なく、軍司令官が大将(または先任中将)から任ぜられていたのに対し、参謀本部総長は中将(就任時のモルトケは少将)の職であり、王貴族であることも多い軍司令官は参謀本部のコントロールに従わなかった。 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の始まる2年前、モルトケは対デンマーク作戦の諮問を受けて、正面攻撃を避けて側面に迂回し、デンマーク軍が島に撤退して長期戦となることを防ぐ戦略を答申していた。しかし実際の戦争が始まると、プロイセン・オーストリア連合軍の総司令官のフリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥とその参謀長のフォーゲル・フォン・ファルケンシュタインは作戦を認めず、参謀本部も半世紀前の兵站部程度にしか見ていなかった。モルトケはベルリンを離れられず、戦況はフリードリヒ・カール親王の軍団参謀長であるブルーメンタールからの私信で知りうるに過ぎなかった。戦況はモルトケの危惧通り、侵攻には成功したがデンマーク軍は要塞に撤退して長期戦の様相を呈した。プロイセン王国の軍事大臣アルブレヒト・フォン・ローンはモルトケの正しさを認め、長期戦によるイギリスの干渉を防ぐための戦争指導を仰ぐように国王ヴィルヘルム1世にモルトケを推薦した。 プロイセンの派遣軍にモルトケが加わり、指導力を発揮して戦闘が再開されると、プロイセン軍はアルス島に上陸してユトランド半島全体の制圧に成功し(アルス島の戦い)、デンマーク軍を粉砕した。孤軍奮闘のデンマーク軍は士気が高く善戦したが、連合軍との圧倒的な軍事力の差は埋まらず、後退を繰り返しつつ一方的な守勢に立たされた。結局、戦闘再開によりデンマークは瞬く間に完敗し、屈服を余儀なくされた。モルトケの戦争指導により参謀本部の効能が認められ、老齢のために退役を願ったモルトケだったがその願いは退けられ、参謀本部に留任された。
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