フォークランド紛争と南アフリカ問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:06 UTC 版)
「エリザベス2世」の記事における「フォークランド紛争と南アフリカ問題」の解説
「フォークランド紛争」および「アパルトヘイト」も参照 スエズ以東からの撤退以後、南米のフォークランド諸島(マルビナス諸島)の防衛は英国に取って負担になっており、1979年に就任したマーガレット・サッチャー首相下でリース案まで検討されていた。これを好機と見、またアルゼンチン国内における政治的必要性から、レオポルド・ガルチェリ大統領は1982年3月にフォークランド諸島進攻を開始した。サッチャー首相は毅然たる態度を取り、女王はこれを支持するとともに第二王子のヨーク公アンドルー王子がヘリコプター操縦手として出征した。 6月14日に英国の勝利で紛争は終結し、また同月21日にはチャールズ王太子夫妻に長男ウィリアム王子(後のケンブリッジ公爵)が誕生し、英国は慶事に沸いた。 しかし、サッチャー首相は南アフリカ問題を通じ、経済制裁やコモンウェルスとしてのあり方について女王と意見を異にしていた。1986年7月、女王と首相の確執について報じられたことに端を発し、経済制裁に消極的な首相及び政策への批判から、エディンバラでの1986年コモンウェルスゲームズにはボイコットが相次ぐ事態となった。 女王は国内のみならず国際社会でも公平な立場にあるはずが、アパルトヘイト廃止やネルソン・マンデラの釈放を巡っては、カナダ首相ブライアン・マルルーニーや豪首相ボブ・ホークの活動を通じて、ECによる南アフリカへの経済制裁を容認させようとしていたとされる。1990年にマンデラは釈放され、アフリカ民族会議の議長に就任した。1991年に開催されたCHOGMには、オブザーバーとしてマンデラも参加することとなっていたが、誤って晩餐会の式場にも来たところ、女王が参加を認め和やかな歓談が行われた。マンデラは1994年に同国大統領に就任し、南アフリカ共和国はコモンウェルスにも復帰した。 1976年、フォード米大統領と踊る女王 1988年4月30日、豪ブリスベン国際レジャー博覧会の開会式で演説する女王 1988年7月4日、訪蘭時、ベアトリクス蘭女王と
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