ファシズム体制の構築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「ファシズム体制の構築」の解説
独裁宣言以後、ムッソリーニは結社規制法、定期刊行規制法、政府による公務員免職法など次々と可決させ、反対派が全体主義(総力戦主義)と呼ぶ統制的な社会体制を作り上げていった。後に続くナチス・ドイツ体制での強制的同一化とは異なり、無用な軋轢を避け、長期的な視野に基いた体制構築を志向したファシズム・イタリア体制は「選択的全体主義」と定義されている。 1925年6月に開かれた国家ファシスト党の党大会において、ムッソリーニは「イタリア国民のファシスト化」を宣言した。全ての国民が年齢・性別・職業・居住地など何らかの区分毎に組織化され、自由主義国家で認められているような政治社会と市民社会の境界線は取り払われた。政治行政から文化政策に至るまで、あらゆる分野でファシズムに基づいた社会・国家の構築が図られた。1927年10月、「ファシスト暦」の導入が決定され、ローマ進軍が行われた「西暦1922年」を「ファシスト暦第1年」として暦の始まりとした。伝統的な年号の横にローマ進軍から経過した年数が刻まれ、ファシズムの象徴であるファスケス(束桿)が宰相旗や国章などに組み込まれた。
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