バージニア方面作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 06:45 UTC 版)
「チャールズ・コーンウォリス」の記事における「バージニア方面作戦」の解説
コーンウォリスはバージニアに到着するとフィリップス軍の指揮を引き継いだ。その部隊は直前までコーンウォリスの親友であるウィリアム・フィリップス少将が指揮していたが、フィリップスはコーンウォリスがピーターズバーグの陣地に到着する1週間前に死んでいた。コーンウォリスはクリントンに自軍の動きを報せず行軍してきていたので(当時イギリス軍の2人の指揮官の通信は海上経由によっていたので極端に遅く、3週間を要することもあった)、北に移動したこととチェサピーク湾地域でアメリカ軍の補給基地を潰すことに携わるという伝言を送った。 1781年3月、アーノルドとフィリップスの軍による脅威に反応したワシントンはラファイエットに部隊を付けてバージニア防衛のために派遣した。この若いフランス人は指揮下に3,200名の部隊を持っていたが、バージニアにいるイギリス軍は総勢7,200名に上っていた。ラファイエットは援軍を集めながらイギリス軍との会戦を避け、コーンウォリスとの小競り合いを続けた。この頃にクリントンからバージニア半島(当時の手紙ではウィリアムズバーグ・ネックと呼ばれていた)で陣地を選び、戦列艦を保護できるような要塞化した海軍基地を建設せよという命令を受けた。コーンウォリスはこの命令を実行する間に罠に嵌ってしまう位置に自らを置いてしまった。ド・グラス伯爵が指揮するフランス艦隊とワシントンが指揮するフランス・アメリカ連合軍が到着するに及んで、コーンウォリスは自軍が遮断されたことを覚った。トマス・グレイブス提督が指揮するイギリス海軍がチェサピーク湾の海戦でフランス艦隊に敗れ、フランス軍攻城部隊がロードアイランドのニューポートから到着すると、コーンウォリス軍の状態は耐え難いものになった。1781年10月19日、コーンウォリスはワシントン将軍とフランス軍指揮官ロシャンボー伯爵に対して降伏した。コーンウォリスはワシントンと顔を合わせたくなかったので、降伏の日には病気と言ってチャールズ・オハラ准将を送り、儀礼通り剣を収めさせた。ワシントンは副司令官のベンジャミン・リンカーンにコーンウォリスの剣を受け取らせた。
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