ハンブルクとその港
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 21:31 UTC 版)
「ソールズベリー・ステーキ」の記事における「ハンブルクとその港」の解説
中世料理において挽肉は珍味の部類であり、赤身肉は上流階級の口にしか入らなかった。保存食としてのソーセージづくりでは挽肉を使うことはなかったためか、中世には肉屋が挽肉を作ることはほとんどなく、当時の料理書にも挽肉は出てこない。時代が進んで17世紀になると、ロシア船がハンブルク港にタルタルステーキのレシピを持ち込んだ。当時ハンブルク港はロシア人が多く住んでいたため「ロシアの港」と呼ばれるほどであった。13世紀から17世紀にかけて、ハンブルクはハンザ同盟に属する自由都市としてヨーロッパ随一の港湾都市となっていたが、大西洋横断航海の拠点ともなることから商業的な重要性はますます高まっていた。ヨーロッパ諸国がアメリカ大陸に進出するようになると、ハンブルクへの移民が旧大陸のレシピを新大陸に伝える架け橋の役割を担うようになった。 19世紀前半に新世界を目指したヨーロッパ移民のほとんどは、ハンブルクから旅立っていった。1847年に創業したハンブルク・アメリカ小包輸送株式 (HAPAG、現在も存在する海運会社ハパックロイドの前身) は、ほぼ1世紀にわたって大西洋横断航路を担っていた。同社がドイツ1848年革命を逃れた多くのドイツ系移民を雇っていたことと、ニューヨークがハンブルク発の大西洋横断客船の寄港地であったことから、ニューヨーク市内の多くのレストランがドイツ人船員を呼び込むためにハンブルク風ステーキを出すようになった。メニューにはハンブルク風アメリカン・フィレ、果てはビーフステーク・ア・アンブルジョワーズ (beefsteak à Hambourgeoise、フランス料理のような語感としたもの) などと書かれていた。 このように、アメリカにおける牛挽肉料理は、ハンブルク港や移民の故地の追憶を呼ぶものとしてヨーロッパからの移民の好みに合わせて発展していった。
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