ハンガリー王妃として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 07:03 UTC 版)
「バルバラ・ツェリスカ」の記事における「ハンガリー王妃として」の解説
バルバラと同族の再従姉であるアナはともに、ツェリェ伯家の姻戚にあたる姉妹を先妻かつ共同君主としていた2人の君主の再婚相手となった。アナは女王ヤドヴィガを亡くしたポーランド王兼リトアニア大公のヴワディスワフ2世と1402年に、バルバラは女王マーリアと死別したハンガリー王ジギスムントと1405年(1406年、1408年とも)に、それぞれ結婚したからである。アンジュー家の女王姉妹マーリアとヤドヴィガの母エリザベタと、バルバラおよびアナの父方の祖母カタリナは姉妹である。 ジギスムントにとってバルバラとの結婚には、妻の死によって脆弱になったハンガリー王位の正統性を補強する目的があった。バルバラは父方の血統を通じてスロヴェニアの支配者ツェリェ伯のみならず、ボスニアのコトロマニッチ家、セルビアのネマニッチ家、さらにはハンガリー王イシュトヴァーン5世の血を引いていたからである。バルバラは結婚と同時にグラン大司教によってハンガリー王后に戴冠した。ジギスムントは1410年にローマ王位、1419年にボヘミア王位を獲得し、1433年には神聖ローマ皇帝として戴冠している。 バルバラはジギスムントの子供としては唯一人生存した女子相続人エリーザベト(1409年生)の母となり、娘をハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒト5世(ローマ王、ボヘミア王、ハンガリー王位を継承した)に嫁がせ、存命中にアンナ、エリーザベト、ラディスラウス(オーストリア公、ボヘミア王、ハンガリー王位を継承した)の3人の孫の祖母となった。 父ヘルマン2世は、反目しあうジギスムントとヴワディスワフ2世の「舅」として、1410年のタンネンベルクの戦いでは重要な役割を演じた。ヘルマンはこの戦いにおいて、ドイツ騎士団と結んでヴワディスワフ2世を破滅に追い込もうとする義理の息子ジギスムントと敵対し、義理の甥ヴワディスワフを支援した。ウワディスワフとその同盟者であるスラヴ同盟は、ローマ教皇を含め22もの西欧諸国から送られてきた戦士たちを率いるドイツ騎士団を打ち負かしたのである。[要出典] タンネンベルクの戦いでは敵対したポーランド王国であるが、彼我の王妃が姉妹であったこともあって友好的な関係が続き、ジギスムントとバルバラはケースマルクにポーランド王夫妻を招いて1412年3月15日にその後8年間有効となるポーランド=リトアニアとハンガリーとの平和条約を結んだ。
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