ニューヨーク - フィラデルフィア - ボルチモア - ワシントン間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 06:34 UTC 版)
「ペンシルバニア鉄道」の記事における「ニューヨーク - フィラデルフィア - ボルチモア - ワシントン間」の解説
1860年代初期、PRRはノーザン・セントラル鉄道(英語版)の支配権を得て、コロンビア(英語版)あるいはハリスバーグ接続で、サスケハナ川沿いにメリーランド州ボルチモアまでの路線を得た。 1871年12月1日、PRRはユナイテッド・ニュージャージー鉄道運河を借り受けた。これにはフィラデルフィアからデラウェア川の対岸にあるカムデンから、ニューヨークからラリタン湾(英語版)の対岸にあるサウスアンボイまでを結ぶ当初のカムデン・アンド・アンボイ鉄道の区間や、それより新しいフィラデルフィアからトレントンを経由してニューヨークにより近いジャージーシティまでを結ぶ路線などを含んでいた。フィラデルフィアにおける線路の接続はコネクティング鉄道(英語版)およびジャンクション鉄道(英語版)によって実現した。 PRR傘下のボルチモア・アンド・ポトマック鉄道(英語版)は、ボルチモアとワシントンD.C.の間を1872年7月2日に開通させた。この経路では、ボルチモアにおいて市の北側へ向かう路線との乗り継ぎに馬車鉄道を利用する必要があった。1873年6月29日にボルチモアを縦貫してボルチモア・アンド・ポトマックトンネル(英語版)が開通した。PRRは、紛らわしい名前であるがペンシルバニア・エア・ライン (Pennsylvania Air Line) という名前の運行をペンシルベニア州コロンビアとの間でノーザン・セントラル鉄道経由で運行開始した。この経路は従来の経路より54.5マイル (87.5 km) 長かったが、ボルチモアにおける乗換の必要がなかった。ボルチモアのユニオン鉄道(英語版)は、1873年7月24日に開通した。この経路はボルチモアにおける乗換の必要をなくした。PRRは、ユニオン鉄道およびフィラデルフィア・ウィルミントン・アンド・ボルチモア鉄道(英語版)と契約を結んでこの路線を利用することにした。PRRのニューヨークとワシントンD.C.を結ぶ列車は翌日からこの経路を運行し始め、ペンシルバニア・エア・ラインの運行は終了した。1880年代初期には、PRRはフィラデルフィア・ウィルミントン・アンド・ボルチモア鉄道の株の過半を取得した。これによりボルチモア・アンド・オハイオ鉄道は、フィラデルフィアまでの経路を維持し、そこでレディング鉄道に接続してニューヨークまでの旅客列車「ロイヤル・ブルー」の運行を続けるために、ボルチモア・アンド・フィラデルフィア鉄道(英語版)を建設しなければならなくなった。 1885年にPRRは、ニューヨークからフィラデルフィアを経由してワシントンD.C.までの停車駅の限られた列車の運行を開始した。この列車は「議会特急」(Congressional Limited Express) として知られるようになった。この列車の運行は拡大され、1920年代にはニューヨーク - フィラデルフィア - ワシントンD.C.間の列車を1時間おきに運行するようになった。1950年代初期には、18両のステンレス鋼製流線形車両がニューヨーク - ワシントンD.C.間のモーニング・コングレッショナル (Morning Congressional)およびアフタヌーン・コングレッショナル (Afternoon Congressional)、そしてボストン - ワシントンD.C.間のセネター (Senator) に投入された。
※この「ニューヨーク - フィラデルフィア - ボルチモア - ワシントン間」の解説は、「ペンシルバニア鉄道」の解説の一部です。
「ニューヨーク - フィラデルフィア - ボルチモア - ワシントン間」を含む「ペンシルバニア鉄道」の記事については、「ペンシルバニア鉄道」の概要を参照ください。
- ニューヨーク - フィラデルフィア - ボルチモア - ワシントン間のページへのリンク