ドイツ敗戦と降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/02 12:07 UTC 版)
「U234 (潜水艦)」の記事における「ドイツ敗戦と降伏」の解説
U-234はキール出航後の3月29日、バルト海で潜航中にU-1301と接触事故を起こした。その修理後ノルウェーのクリスチャンセン(Kristiansand)から4月16日午後再度出航した。 1945年5月10日に大西洋上にて浮上した際、ドイツが既に降伏したことを知った艦長のヨハン・ハインリヒ・フェーラー(Johann-Heinrich Fehler )海軍大尉は、一時は日本人便乗者を南米の中立国アルゼンチンに送り届けることに決するが、デーニッツ海軍総司令官の降伏命令と部下の安全を優先してアメリカ軍に降伏することを決心、友永と庄司両技術中佐は捕虜となるのを潔しとせず自決した。5月14日、北大西洋上の通称“フレミシュキャップ(Flemish Cap)”の東海上にて、拿捕命令を受けた米海軍の護衛駆逐艦「サットン」(USS Sutton)に停船を命じられ、乗組員はその場で操船要員を除く全員が退艦することとなる。 その後米海軍の拿捕回航員らにより、U-234は一旦メーン州キャツコ・ベイへ向かうが、そこでの積荷の一部の紛失を、後にベルマ・ハント(Velma Hunt)ペンシルベニア州立大学元教授らにより指摘されている。その後、U-234はニューハンプシャー州ポーツマスに向かう。米海軍はこの寄港時点で約550kgの「U235」の積み下ろしを記録しているが、この時何故か、ウラン塊同様、積荷目録にあった筈の「分解済みMe 262型ジェット戦闘機」の存在が、米海軍側の資料に記録されていなかった。つまり、このことが当初ドイツ側の目録に記載されていた積荷の一部が、この時までに他の寄港地で積み下ろされていたのではないか、との疑惑を生む原因となった。
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