ディック・シーマン(イギリス)
イギリス・サセックスの良家の子息として生まれた。理解ある母親の援助でアマチュアレースをはじめ、ケンブリッジ在学中にウイットニー・ストレイトと知り合ったことで、一気にトップレベルのレースに近づいた。1935年にはERAに乗るタイの王子、プリンス・ビラと一進一退の争いを展開、世間はこの2人を好敵手として注目した。このころジュリオ・ランポーニとの知遇を得て10年ほど前の1.5LGPマシン、ドラージュを購入。ランポーニの入念なオーバーホール後、36年にはこの黒色塗装のマシンで、ERAのワークス・チームを打ち負かす活躍をみせた。これがノイバウアー監督の目に止まり、翌37年からメルセデス・チーム初のイギリス人ドライバーとしてW125という当時最強のマシンを操り、グランプリを転戦した。通称750キロ・フォーミュラから3L制限に車両規則が変更された38年に、ドイツGPでチームメイトのフォン・ブラウヒッチュとの戦いののちに、GP初勝利を手にした。さらに39年、ダー・レーゲンマイスターの異名をとるカラツィオラでさえスピンして脱落するほどの雨のスパ・フランコルシャンで、トップを走行中にクラッシュ、病院に運ばれたが、帰らぬ人となった。ライバルと称されたプリンス・ビラのマネージャー役を務めたプリンス・チューラが、シーマンの伝記をまとめている。
リチャード・シーマン
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