ダヴィド4世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 04:01 UTC 版)
ダヴィド4世 დავით აღმაშენებელი | |
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グルジア王 | |
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在位 | 1089年 – 1125年 |
出生 | 1073年 クタイシ |
死去 | 1125年1月24日 トビリシ |
埋葬 | ゲラティ修道院 |
子女 | デメトレ1世 |
家名 | バグラチオン家 |
王朝 | バグラチオン朝 |
父親 | ギオルギ2世 |
母親 | ヘレナ |
宗教 | グルジア正教会 |
サイン |
ダヴィド4世(グルジア語: დავით აღმაშენებელი, 1073年 - 1125年1月24日)は、グルジア王国の国王である。建設王と呼ばれる。
生涯
当時、グルジア王国の首都だったクタイシで1073年頃に誕生した。バグラチオン家の一員であり、父親はグルジア国王ギオルギ2世であった。1089年、父親ギオルギ2世より王位を譲られ、16歳の時に国王になった。
治世中、長年にわたってコーカサス各地でセルジューク朝との戦いに費やす。ダヴィド4世は大幅な軍事改革などを行った。1121年8月12日にダヴィド4世率いるグルジア軍は、トビリシの西方40キロにあるディドゴリで起きたディドゴリの戦いでセルジューク・トルコ軍を撃破、決定的勝利を収めた[1]。
その後、グルジア軍はコーカサスの南方に兵を進め、領域を拡大。さらに当時の主要都市アニ (現在はトルコ共和国カルス県内にあるアニ遺跡)を攻略した。また、1122年に首都をクタイシからトビリシに遷都している。
ダヴィド4世は大変に教育熱心であり、人々に教育を施した。学校や学院が多数建設され、特にゲラティアカデミーは名門であり、グルジア文化の中心地であった[2]。さらに、コンスタンティノープルに留学生を多数送り、グルジア王国の文化発展に尽力した。
ダヴィド4世は1125年1月24日に首都トビリシで死去。ゲラティ修道院に埋葬され、グルジア正教会によって列聖された。
関連項目
- ダヴィト・ザ・ビルダー・クタイシ国際空港 - 建設王の名を冠したクタイシの国際空港
出典
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ダヴィド4世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 01:18 UTC 版)
黄金時代はダヴィド4世の治世に始まる。彼はギオルギ2世(英語版)と王妃ヘレナの息子であり、16歳のとき、セルジューク朝の最盛期に即位した。彼はまず封建領主の力を弱め、王国の中央集権を進めた。権力を手中に収めたことにより外国の脅威の対処に集中できたダヴィド4世は1121年のディドゴリの戦い(英語版)で大勝利を収めた。グルジア軍はその後セルジューク軍を数日間追撃し、戦利品を多数確保、トビリシを獲得した。 王国の隆盛を見たダヴィド4世は、グルジア王で初めて東ローマ帝国での封号を名乗らなかった者となった。これはグルジア王国と東ローマ帝国の対等を主張することを意味する。マリア・バグラティオニが東ローマ皇帝ミカエル7世ドゥーカスと結婚した後、12世紀には少なくとも16人のグルジア王族が東ローマ帝国での封号を得たが、ダヴィドはその最後となった。 ダヴィド4世は東方からの影響の排除に努め、西方のキリスト教や東ローマ帝国の文化を取り入れた。ゲラティ修道院の建設がその一環であり、当時の正教会の信仰の中心となった。ゲラティ修道院は現代ではユネスコが登録した文化遺産となった。 ダヴィド4世はまた、グルジアの聖歌の伝統を復活させ、いくつかの「悔い改めの賛歌」(グルジア語: გალობანი სინანულისანი, galobani sinanulisani)を作曲した。
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