セルゲイ・ディアギレフ
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セルゲイ・ディアギレフ(英: Sergei Diaghilev, 仏: Serge de Diaghilev, 露: Серге́й Па́влович Дя́гилев[注釈 1], 1872年3月31日(ユリウス暦3月19日) - 1929年8月19日)は、ロシアの総合芸術プロデューサー。
注釈
- ^ ロシア語読みでは セルゲイ・パヴロヴィッチ・ジャーギレフ(シェルギェーイ・パーヴラヴィチ・ジャーギリェフ)。
- ^ 1893年にはピョートル・チャイコフスキー自身の指揮による交響曲第6番『悲愴』の初演にも居合わせた[3]。
- ^ フィロソーフォフはディアギレフの最初の同性愛の相手でもある[4]。
- ^ 国会(ドゥーマ)は、「歴史肖像画展」の会場であったタヴリーダ宮におかれた。
- ^ マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の登場人物ゲルマント公爵夫人はグレフュール伯爵夫人がモデルとされる。
- ^ 当時のフランスではチャイコフスキーは平凡な作曲家と見なされていた[17]。
- ^ ディアギレフはストラヴィンスキーの初期の管弦楽曲『幻想的スケルツォ』作品3と『花火』作品4を聴いて感銘を受け、1909年の公演における『レ・シルフィード』を構成する数曲の編曲を依頼していた。
- ^ 原曲を無視して、ハーレムを舞台とする恋愛劇に作りかえられたため、激怒した作曲者の未亡人ナジェージダ・リムスカヤ=コルサコヴァから、季刊誌「レチ Reč' 」誌上の公開書簡で抗議を受けた。
- ^ この3曲を併せてストラヴィンスキーの三大バレエと呼ぶ
- ^ 終曲は5拍子で作曲されているが、一貫して変拍子を用いる音楽は当時は珍しかったために、さすがのロシア・バレエ団の団員たちも踊り慣れず、練習中にリズムを取るため、「セル・ゲイ、ジャー・ギー・レフ」とくり返し叫んでいたとのエピソードが残されている。
- ^ プロコフィエフが最初に作曲したバレエ音楽『アラとロリー』 はディアギレフにより却下され、『スキタイ組曲』 に書き直された。
- ^ 1921年に独自の版によるチャイコフスキーの 『眠れる森の美女』 をロンドンで上演。聴衆には受けたものの、財政的には不成功であった。
- ^ 葬儀費用の全額はシャネルが支払った[29]。
- ^ ニジンスキーとの関係は、ハーバート・ロス監督により 『ニジンスキー』として映画化されている。
- ^ ニジンスキーだけは例外であった。
出典
- ^ 藤野幸雄『春の祭典 ロシア・ バレー団の人々』晶文社、1982年、28ページ
- ^ 藤野幸雄、前掲書、28ページ
- ^ 藤野、前掲書、33ページ
- ^ 芳賀直子『バレエ・リュス その魅力のすべて 』国書刊行会、2009年、61ページ
- ^ リチャード・バックル、鈴木晶訳『ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代』リブロポート、1984年、上巻11ページ
- ^ バックル、前掲書、上巻28ページ
- ^ バックル、前掲書、上巻33ページ
- ^ 藤野、前掲書、34-38ページ
- ^ バックル、前掲書、76ページ
- ^ バックル、前掲書、上巻94-95ページ
- ^ 芳賀直子、前掲書、70-71ページ
- ^ バックル、前掲書、上巻52ページ
- ^ バックル、前掲書、上巻66-68ページ
- ^ バックル、前掲書、上巻101ページ
- ^ 鈴木晶『踊る世紀』新書館、1994年、24ページ
- ^ バックル、前掲書、上巻105-106ページ
- ^ バックル、前掲書、上巻106ページ
- ^ バックル、前掲書、上巻121-125ページ
- ^ バックル、前掲書、146-150
- ^ バックル、前掲書、156-173ページ
- ^ 鈴木晶、前掲書、14ページ、芳賀直子、前掲書、11ページ
- ^ バックル、前掲書、上巻
- ^ バックル、前掲書、176ページ
- ^ バックル、前掲書、182ページ
- ^ バックル、前掲書、172ページ
- ^ 今谷和徳、井上さつき『フランス音楽史』春秋社、2010年、391ページ
- ^ バックル、前掲書、上巻209ページ
- ^ バックル、前掲書、下巻309-311ページ
- ^ 芳賀直子、前掲書、372-5ページ
- ^ 芳賀直子、前掲書、77ページ
- ^ 藤野幸雄、前掲書、40ページ
- 1 セルゲイ・ディアギレフとは
- 2 セルゲイ・ディアギレフの概要
- 3 経歴
- 4 人物
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