サザンフィーバーの活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 16:33 UTC 版)
「ベストブラッド」の記事における「サザンフィーバーの活躍」の解説
1982年4月24日、唯一の初年度産駒となったサザンフィーバー(母ルラウス)が誕生。1984年、ベストブラッドと同じく鈴木清厩舎に入り、デビュー前から調教で目立った動きを見せた。11月に迎えた初戦(東京・芝1800m)は、2着に9馬身差を付けての逃げ切り勝利を収める。この競走の3着馬は、翌年クラシック戦線で中心馬の1頭となるスダホークだった。次走の条件戦(黒松賞、中山・芝1600m)も1分35秒4という好タイムで勝利し、クラシックに向けての有力馬に挙げられた。 4歳時は初戦のジュニアカップで3着。苦手の不良馬場で行われた共同通信杯4歳ステークスも3着となり、クラシック初戦・皐月賞への前哨戦としてスプリングステークスに出走。デビューから騎乗を続けた柴田政人はミホシンザンに騎乗、本馬の鞍上は増沢末夫に替わった。 レースではスタートから単独で逃げ、余裕を残したまま最後の直線に入った。しかし直後に右前脚粉砕骨折を生じて転倒。レース終了後、診療所で予後不良と診断され、安楽死の措置が執られた。通算5戦2勝。軽傷で済んだ増沢は、競走後「(無事なら)絶対に勝っていた」と語り、本馬を本命に推していたサンケイスポーツ記者の佐藤洋一郎は紙面に追悼文を寄せた。
※この「サザンフィーバーの活躍」の解説は、「ベストブラッド」の解説の一部です。
「サザンフィーバーの活躍」を含む「ベストブラッド」の記事については、「ベストブラッド」の概要を参照ください。
- サザンフィーバーの活躍のページへのリンク