コロンビア大学とクラーク大学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 01:13 UTC 版)
「田村哲」の記事における「コロンビア大学とクラーク大学」の解説
田村はそのまま1901年(明治34年)までアイオワシティ市のアイオワ州立大学に留まり6月に修士(M.A.: Master of Arts in mathematics)となる。修士論文題目はApplications of Harmonic Analysis to the Study of Vibrating Strings and Membranes (1901) 。この後、初めて東部を目指しニューヨーク市のコロンビア大学大学院に入学する。ところで、クラーク大学に推薦状を送った結果だが、田村は受理されている。しかし、クラーク大学で予定された指導教授ウェブスター博士 (Arthur Gordon Webster) が1年間留守となるのとアイオワ州立大学からも奨学金が出たため、アイオワの大学院に1年間留まった経緯がティルトン教授と田村自身がクラーク大学に出した弁明書で明らかになっている 。 アイオワに1年留まってもクラーク大学の奨学金は立ち消えとなったわけではない。1901年から1902年(明治35年)夏にかけてはコロンビア大学大学院博士課程で当時コロンビア大学理学部部長だったロバート・シンプソン・ウッドワード (Robert Simpson Woodward)博士の下で学ぶことになるが、この間はコロンビア大学の特待研究生(fellowship)の俸給で賄い、秋からはニューヨークを出てニューイングランドに移りクラーク大学において研究を継続し、1903年(明治36年)夏にコロンビア大学に戻った。 田村の自筆履歴書ではこの年に博士の学位を得たとなっているが田村自身が書いた自伝のほうが正しく:p.48取得したのは2年後の1905年である。次節の通り、ワシントンにおける一連の気象学の研究を元にしたもので博士(Ph.D.: Doctor of Philosophy in pure science)請求先はコロンビア大学であるが標題ページにはコロンビア大学およびクラーク大学のフェローであったことが明記されている。博士論文題目はMathematical Theory of the Nocturnal Cooling of the Atmosphere であり、Monthly Weather Review誌1905年4月号(p.138-147)に掲載された論文を主論文として、31ページの冊子体に作り替え標題を入れて学位請求論文とした。
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